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ごっこ遊び

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暗がりの街並みの中を、ゆっくりと歩く。見慣れた風景と街並み、今日もこの町はいつも通りの呼吸をしているような気がする。
 こうやって夜中に町を歩くのはよくあることだった。取引は昼間よりも夜中のほうが多い。情報を買いたがる奴はそういう闇を好む。いや、その方がこちらが油断するかもしれないということを含めているのかもしれないが。
 今日も取引が終わってみれば、こんな時間だ。短針は12を過ぎている。
 真夜中の街は静かだった。自分の事務所がビル街にあるということもその要因の一つだったが、人がいそうな気配はない。こんなとき、この街はつまらないとおもう。これが大人と子供の差なのかもしれない。

 街灯の下、家路をたどる。その先の角を曲がったところに、自分の事務所がある。そう思いつつ、何気なく角を曲がり事務所のあるほうを見上げた時に正直驚いた。
 自分の事務所と思われるところに、明りがついているのだ。
 どうだったろうか、あそこを出るときに波江に電気をつけたままにしておけといっただろうか。
 電気がついているということはさして問題はない。むしろ好都合なくらいだ。俺があの場にいるというカムフラージュになるのだから。もしかしたらそう、秘書に指示をしたのかもしれない。
 だが、いくら自分の記憶をたどろうともそんな指示をした記憶は全くない。そして、あの人がまだ仕事をしているとは到底考えられない。大体定時になったらさっさとタイムカードを切って帰るような女だ、残業なんてことはまずないだろう。それに彼女には事務所の合鍵を渡してある。別に俺がいなくとも帰ることは可能だ。
 では、なぜあの部屋の明かりがついているんだ?
 なぜ、その疑問が頭に浮かぶだけでまったく解答は浮かんでこなかった。おそらく電気をつけっぱなしにして、波江が出て行ってしまったんだろう。そうに、違いない。
 そうやってなぜか頭の中の疑問符を打ち消しながら、俺は鍵をつかってオートロックを開け、そのまま奥へ進むといつも通りエレベータのボタンを押した。
 自分の事務所の扉の前につき、鍵を差し込む。開ける方向へ回せば、違和感なくガチャリと音を立てた。
――なんだ、ちゃんと鍵かかってるじゃないか。
 つまり、自分の予想通りの結末ということではないか。なんだ面白いものでも見れるかと思ったのに。
 予想通りの結末に対して、安堵と失望を半分ずつ持ちながら、ドアノブを回す。ドアの向こうは、いつもの暗闇の部屋ではなく明りに満たされた部屋だったので何とも違和感を覚えざるを得ない。もともと夜目が利くほうだったから、夜自分の部屋に帰ってきても電気は必要最低限しかつけない。そのせいか、余計奇妙な感じがした。
 まぁいいか、そう思いながら、奥のほうへ進んでいくと予想もつかないものが目に飛び込んできて俺は思わず瞠目した。
 誰もいない、いるはずがないと思った部屋に人間がいたのだ。そしてそこにいたのは、自分の秘書――矢霧波江だった。彼女はいつも仕事の時に使っているソファのひじ掛けにもたれて、寝息を立てていた。
「うわー、何、この状況」
 思わず声がでた。いや、声を出さずにはいられないだろう。有能だがいつも弟のことしか頭にないこの女が、仕事が終わっているのにもかかわらず事務所に残っているのだ。そんな奇妙なことに出くわして声が出ない方がおかしい。むしろ声をあげて笑ってやりたいくらいさ!

 仕事に疲れて眠ったのか…初めはそう思ったのだが、どうやら違うらしい。頼んだ仕事はすべて終わっているようだ。その証拠に、俺のデスクのほうに書類の束と、必要だと言っておいた本が積んであるし、机の周りも整理されている。
 ではなんだ…新手の残業代の請求だろうか、そう思ってタイムカードを見てみるとすでに定時の時点で退勤のところに時間が刻んである。退勤した状態であるのにもかかわらず、この女が事務所に残っているだって?一体何のつもりだろうか。
 矢霧波江という女は典型的な愛に狂った女だったが(いや、非典型かな?だって愛の対象が実弟なんだから)、ときどき不可解な行動を見せることが多々あった。こちらの予想通り、それこそ引いてやったレールに見事に乗ってくれることもあれば、まったく思いもしなかったことをしでかしたりする。たとえば、今がそうだ。
 今まで見てきた言動や、行動から考えてもこの女が上司の帰りを待っているという殊勝なことをするなどまずないと言える。だが、現にこうしてこの場にいる。なんだこの矛盾は、いったいどんなつもりでやったのだろうか。これだから人間とは分からないものだ。新しい「人間」の表情、それが今ここにあるという事実。それが俺を高揚させて高揚させて仕方がないというのに!
(…なんで寝てるかな、波江)
 どういうつもりで?なぜ?そう問い詰めてやってその「人間」の面白さを味わいたいというのに、肝心の本人は寝ているとは…どうしようもない。さすがに眠っている人間をわざわざ起こすのも忍びないと思い、(それこそ急に起こして”なぜ”の部分が記憶から飛んでしまったら困るだろ?)俺は仕方ないなぁとため息をついた。

 ソファに持たれている波江を見下ろしてみる。その寝顔はとてもやわらかだった。いつも事務的な顔しかしない彼女は別の表情をのぞかせることはほとんどない。唯一あることと言えば、弟のことを語るときの恍惚とした表情だけだ。
 だが、今はそういった武装が一切ない。まっさらな表情とでもいおうか。こうしてみると、どこにでもいるような普通の女に見えた。無防備でかわいらしい寝顔の年上の女。
 俺はしゃがみ込んで、その頬に手を伸ばした。やわらかな頬の感触、こうやって肌に触れるのはこれが初めてだった。
 変なものだと思う。一年ほど秘書を任せていて、来客がなければ常時二人きりのようなものなのに一切そういう関係にならない。そもそも波江は俺のことを男として意識しているかすらあやしい。そう聞けば、どうせ弟以外男として見てないとでもいうのだろう。それこそ、シズちゃんが俺に対して吐き散らかすノミ虫くらいに思っているのかもしれない。
 そうやって呼ばれたことを思い出したら、いらいらして滑らした指に力がこもる。強く触れたせいか、波江が短く声を上げた。一瞬起きてしまうかと思ったがどうやらその気配はないらしい。それに少しだけ安堵している…変だな。
 指を頬から放して、今度はその髪に手を伸ばす。手で梳きやれば髪はさらりと指の中を通り抜けていく。長い髪にもかかわらず、傷んだところは見受けられない。よく手入れがされているようだ。試しにミツアミにしてやろうと髪の毛を結おうとしたが、すぐにするりとほどけてしまった。
 さらさらと手の中を流れる髪は、なぜだか心地が良かった。すきやるたびに甘い香りがする。波江のフレグランスだろうか。
 こうやって二人きりの部屋で眠っている女の髪をすきやっているとまるで恋人どうしかなにかのようにさえ思えてくる。実際そんな関係では微塵もないのだが、それも悪くないかもしれないと思わせる力があった。
作品名:ごっこ遊び 作家名:いとり