ごっこ遊び
――波江に、一矢報いてやってもいいかもしれない。
俺は髪に触れていた手を再び頬に添えるとそのまま親指のはらで唇をなぞった。このままキスをすれば、まさに恋人にしてやるかのようだ。
キスで目覚めるなんたら、そんなおとぎ話があったよね。
そんなことを頭に浮かべながらそのまま唇に触れようと顔を近づけた。なぜか心臓がいつもよりうるさい、これじゃまるでこれが初めてのキスみたいだ。(残念ながらそうじゃないけどね)ゆっくり、ゆっくり、目をあける前に―――
けれど、俺は触れ合うか合わないかの距離でそれを止めた。
「何馬鹿なこと考えてるんだか…、らしくないな」
なぜそうする必要があるのか、意味がわからないじゃないか。別に好きでもない女とキスをするのが好きなわけでもない。ただのお遊びにしてはこれはやりすぎだ。やるなら、波江が起きてる時のほうがもっと面白いに違いない。いっそ弟の前でもいい。波江はどんな顔をするのかそれは見ものだろう。
俺はそうおもうと、息が触れ合うくらいの距離にいた彼女から手を離してゆっくり立ち上がった。そして、何事もなかったかのようにコートを脱いで、波江の上にかけてやった。まぁこれくらいだったらしてやってもいいかと思ったからだ。
コートを脱ぐとずいぶんと身軽になった。やっと家に帰ってきたという感じだ。
家にこうして自分以外の人間がいるだけでこうも気分が変化するものなのかと思いながら、その人物を見やる。優秀な秘書は一向に起きる気配はなく、規則正しい寝息が聞こえるだけだ。相変わらず、無防備すぎる。
俺は一息つこうと思い、何か飲み物を飲むことにした。キッチンに行ってみると、コンロの上には鍋が置いてあり中にはスープがつくってあった。これは、夜食としてもらおう。
暗がりの中、コンロに火をともす。そのまま、冷蔵庫も開けてみれば、料理が入っていた。こちらも波江が作ったのだろう。だけど、俺はそれを見てあぁなんだ、とあの頭の中を占めていた疑問符にたいして最も的確な答えが浮かぶのがわかった。
波江が料理を作ったこと(正確にいえばつくらせたのだが)は何度かあったが、いつもあり合わせでつくることが多かった。彼女の料理の腕が悪くないことは知っている。だが、この冷蔵庫に入っている料理は今までに見たことがない程手の込んだものであるのは一目瞭然だ。それは、誰かのためしか作らないようなものだ。少なくとも俺のためではないね。
――なんだ、ただのごっこ遊びに付き合わされたのはこっちか。
俺は乾いた笑いを浮かべていたけれど、そのまま声に出して笑いだしてしまった。
そして今までの自分の茶番にぞっとした。気持ち悪くて気持ち悪くて!
あぁ…!もやもやする。
火にかけた鍋の中身は俺の腹の中のようにぐつぐつと音を立てて煮立っている。俺は火を止めて、とりあえずそのスープを器によそった。
口をつけたスープは熱すぎて、おいしいんだかまずいんだか定かではなかった。いや、きっとまずいに違いない。こんな手の込んだものより、いつもの手抜きのほうがずっとおいしい。
器をもった手のひらからは、スープの匂いに混ざって淡くフレグランスが漂う。
その香りがわかった時に、遠くで幸せな夢を見ているだろうあの無防備に薄く開いた唇が妬ましく思え、いっそ塞いでしまってもいいかもしれないとただ、おもった。