Return to the dream
1.
1997年秋。北海道鵡川町、みどり牧場前に一台の馬運車と黒塗りの高級車が相続いて到着した。
「移動中、何事もなかっただろうな? カスケード」
馬運車から引き出されてくる漆黒の牡馬の馬体を、車から降りた初老の紳士が慎重に眺め回す。
「……心配ない」
馬運車内の転倒事故は珍しくないが、たかが北海道間の移動、しかももう若駒でもない自分に対し、幾分過保護に過ぎる所有者に、カスケードは小さく鼻を鳴らしつつ、それでも律儀に応えを返した。
「そうか。お前は病の上に、日本競馬になくてはならない身。本当ならばスタリオンから出すなどもってのほかなんだが――まあ、この場合は特別だ。帰りもくれぐれも事故のないように努めてくれよ」
「ああ……」
偉大なる種牡馬である父と名牝として名高い母から受けた、この身に流れる血の価値は十分に理解している。けれども今は、そんな理屈さえ煩わしい。
この小さな牧場の、どこにあの小さな白い生き物がいるのか。いま漆黒の帝王の脳裏にあるのは、ただそれだけだった。
馬運車のエンジン音を聞きつけたのか、厩舎らしき建物から若者が一人飛び出してきた。それに続いてよく見知った、あの小汚い牧場主が。
ならばあの白いの――ミドリマキバオーは、あそこにいるということなのだろう。
「あっ、待て、カスケード」
走ってくるふたりを待たず、不意に歩を進めたカスケードを馬丁が諌めたが、元より止まる気はない。
「……君は車で待機していなさい。カスケードは私が引こう」
体は大事だ。だから、不用意に走ることはしない。けれど、急く気持ちだけはどうしようもなかった。
厩舎にいたる道の半ばで、ようやく訪問者と牧場主たちとがはち会った。
「どうかね、マキバオーの調子は?」
「……それが」
さすがに悠長な挨拶から始めはしなかったが、そのまま立ち話になりそうな雰囲気に、カスケードは小さないななきで抗議した。歩みを止めないカスケードに先導されるように、三人は歩きながら言葉を交わしている。
牧場主たちの暗い言葉を頭が拒絶しているのか、カスケードは無意識にイライラと耳を絞っていた。けれど、言葉で聞かずとも無残なほど疲れ果てているみどり牧場のふたりの姿をみれば、マキバオーの容体がよくないことは明らかだった。
「おーい、マキバオー。カスケードと本多社長がお見舞いに来てくれたぞー」
わざとらしいほど作った明るい声で、若者が厩舎に入っていく。本多のとなりに立つ源次郎が、ゆるゆると首を振り、
「最近はずっと眠ったままなんですわ。体重もどんどん減っちまって……正直もう……」
涙に声をにじませた。
それ以上は聞きたくない。カスケードは後肢で立ち上がり、高くいなないた。
「カ、カスケード」
「……悪い。あんまり気弱なそっちの御仁が不甲斐なくてね」
引き手(引き綱)が緩かったために、本多を転倒させることはせずに済んだが、どうにもあの白いののことになると自分は平静を失うようだ。
「そ、そうだよな。わしらが気弱になっちゃあ、元も子もない」
「何度も奇跡を起こしてきたアンタらだ。今度もきっと、大丈夫だろうよ」
首を振り、長いたてがみを揺すって、自分が何かを覚悟しているのを自覚する。その自覚の正体を敢えてうやむやなままにして、カスケードはゆっくりと厩舎内に脚を踏み入れた。
作品名:Return to the dream 作家名:ぽち