Return to the dream
「マキバオー、カスケードだ。カスケードがお見舞いに来てくれたよ!」
若者の必死の声に、小さな体がぴくりと反応する。ゆるゆると目蓋を開け、ぼんやりとした目を頼りなく泳がせてカスケードの姿を捉えると、白い小さな獣はふっと淡雪のような笑みを見せた。
「かしゅ、けーど。ホントにかしゅけーど、なのね……」
「……ああ」
それきり、言葉は出なかった。
マキバオーの容体は、想像以上に最悪に近いところにある。
馬房内に設置されたハンモックに吊るされ、だらりとぶら下がった四肢のうち、両前脚は目を背けたくなるほど腫れている。しかし、マキバオーをもっとも苦しめているのは、この不自由な体勢だろう。
隣に立つ本多が、小さく――カスケードにしか聞こえないようなため息をついた。自分と同じように、小さな白い体から紛れもない死の気配を感じたのだろう。
「さいきん、よく…みんなの、こえが……聞こえる、のね。おやぶん…とか、かんしゅけくん、とか…」
「ああ」
話す言葉に力はなく、死んだねずみの声をも聞いたなどと、内容は耳をふさぎたいほど支離滅裂だ。それでもカスケードは頷いて見せた。安心したように、マキバオーがかすかに笑う。
「おかーちゃんの、こえも、した……のに、かしゅけーどの、こえは……しないのね」
「そうか……」
あのねずみや気弱な騎手ほど、カスケードはこの白い生き物の近くにいたわけではないのだ。無理はない。けれど、負けを良しとしない精神を持つもののさがなのか。どこか納得がいかないような、不可思議な苛立ちを感じた。
「きっと、きみが…むくちなせい、なのね……。たくさん、こえを――きいてないから」
「……そう、だったか?」
オーナーである本多や騎手の服部を除けば、マキバオーとその兄貴分であるチュウ兵衛と交わした会話が、カスケードにとっては一番多かった気がするのだが。
「まちがいない、のね。だから……きてくれて、とてもうれしい――――」
話し疲れたのか、辛うじて上がっていた小さい頭が、かくりと落ちる。呼吸音は聞こえているのというのに、その様に心臓が無様にはねてしまったカスケードは、心の中で己の焦燥を自嘲した。
「――――もう、しゃべらなくていい。治ったら、声などいくらでも聞かせてやる。だから、今はもう眠れ」
馬房の中に頭を入れ、カスケードは小さな生き物の哀れなほど短いたてがみにゆったりとグルーミング(毛づくろい)をしてやった。生まれた直後に母を亡くし、他馬とも馴れ合わずにきた帝王の、はじめての自分以外の馬へのグルーミングだった。
「おかえし、できなくて――ごめん、なのね」
気が合う馬同士ならば、グルーミングはお互いに交し合うのが通例である。マキバオーは嬉しそうにしながらも、カスケードに無作法をわびた。
「それも、治ってからの話だな。まあ、治っても大きさが違いすぎるから、上手くいく保証はないが」
「ふふ、だい…じょーぶ。おかーちゃん、も大きかっ、た……、の…ね……」
短いたてがみを甘噛みするたびに舌で感じるマキバオーの体温は、怯むほどに熱い。近しい者の声が聞こえる、と訴えるのも、やはり熱に浮かされているからだろう。
体力も限界だったのか、グルーミングを繰り返していると、帝王の小さな好敵手は浅い呼吸のまま再び眠りについた。
作品名:Return to the dream 作家名:ぽち