Return to the dream
腹に小さな生き物を抱えたカスケードを載せた馬運車は、彼の要望どおりゆっくりと静かに走り始めた。
北海道は車の少ない地域だが、もしものことがあってはいけない。マキバオーが安全な姿勢を保てるよう、カスケードは首を伸ばして小さな体を掬うように体を丸めた。カスケードの競争能力を支えた柔軟性は、ここでも大いに生かされた。
みどり牧場の敷地内から、一般道へ出る車の右折に備えて体に力を入れたとき、マキバオーがぼんやりと目を開けた。
「……ん、いか……なきゃ」
意識は大半、混濁しているのだろう。さっき馬房内で聞いたよりも、もっと弱弱しくふわふわとした声だ。
「……どこへ?」
「けいば……場へ。ター…フへ――かえら、なきゃ……」
答えは期待しないまま戯れに問うたカスケードに、マキバオーは意外にもはっきりと答えを返した。
「…………」
あの冬の中山でカスケードが託したものは、この小さな体には重すぎたのかもしれない。
カスケードが託した希望を抱いて、世界に挑んだマキバオーは自らの限界を超え、安楽死が検討されるほどの重傷を負った。
生死の境にあってなお、うわ言でまでターフへの帰還を口にする好敵手の姿にカスケードの心は乱れた。
「それはもう、お前にとって義務じゃない」
「ん……あ……?」
自分が託した夢が、もし今なおマキバオーを追い詰めているのなら、もういいのだ、と伝えたかった。
自分も――そしておそらく競馬を愛するこの国のファンたちも、ドバイで走る小さな白い馬の姿に果てない希望を見た。日本の調教馬が、世界でいつかきっと……と信じることが出来る走りを、マキバオーは世界の大舞台で見せたのだ。
今ここで競走馬としての使命を終え、余生を過ごすことになったとしても、誰もマキバオーを責めたりはしない。だから、安心して休むといいのだ。
伝えたいことは多くある。けれど、聞く相手の意識は朦朧としているし、不本意なことではあるがマキバオーに指摘された無口――というより口下手か――は的を射ていたらしく、上手く言葉には出来なかった。
「お前は、お前の行きたいところへ行けばいいってことさ」
代わりに、短い言葉に思いを託す。
「……ん……は。いき……たい、とこ……?」
「……そうだ。これからは、お前自身が行きたいところへ行き、やりたいことをするために生きるんだ」
訥々と言葉を選ぶカスケードを熱で潤んだ目で見上げていたマキバオーが、ふと笑った。
「んあ……。いきたい……のは、やっぱり――けいばじょう、……なのね」
「――! ……そうか」
やりたいこともやはり、レースに出て勝つことだと続ける白い好敵手に、自分の心配は杞憂だったらしいと悟ったカスケードは低く声を立てて笑った。
忘れていたわけではない。けれど、この白い生き物が、走ることと勝負に勝つことへのひたむきな情熱を、小さな体いっぱいに秘めていることを今更ながらに思い知った。
「ぜったい……、かえって――みせるのね」
誰かのためでなく、自分自身のために。
それがお前の意思ならば、きっと。
「戻れるさ」
あの、緑輝くターフの上へ。
夢の舞台へ――。
作品名:Return to the dream 作家名:ぽち