ちゃんと世界を閉めていけ
ただ一度だけ。雲雀恭弥は神がいたらいいな、と思ったことがある。
彼ご贔屓のかっこいい赤ん坊がそっと、睦言のように教えてくれたのだ。
神は殺められて死すなり。
神というのは古今東西老衰死をしない。神が死ぬとしたら殺されるときだけだと語ってくれた小さなもみじのお手ての持ち主。リボーンが前髪を梳いてくれることに陶然としつつ、雲雀は神の存在を願ったように思う。殺されるということは戦死があり得るということで、つまり戦えるということなのだよ、と優しくささやいてくれたりボーンの笑みは美しかった。
もちろん雲雀の精神の中に神の住まう場所はなかった。ただ自分の大好きな赤ん坊に敬意を表して、彼との会話を楽しんだ結果、いてもいいと感じただけである。それでも雲雀のその反応は、彼を少し知る人物からは意外に思えるだろう。何しろ雲雀恭弥という男は神をも知らぬ猛々しさで名が既にとどろいていた。神などいやしないとばかりの無慈悲さでトンファーを振るう。周囲の認識はそうであったし、完全に間違っているともいえなかった。
けれど、やはり、彼は無神論者というより無関神論者だった。つまり神とやらへの感情は拒絶ではなく無関心であった。――カミサマはいてもいなくてもどっちでもいい。いるならば救いや慈悲を聞き入れるのではなく戦いを求める存在であれ。――
その意見の前半は概ね、雲雀が嫌々ながら深く係わってきた群れにも言えることだった。彼らの大半は無宗教を異常視されない国から来た異邦人なのだから当然なのかもしれない。
――それでも――
そんな彼らの中の幾人かは、きっと、いや、雲雀とあの気色の悪い目の男以外は、きっと、この72時間古今東西の神々に祈ったはずだ。未来のドン・ジョバンニたる赤ん坊も例外ではなかっただろう。死神と呼ばれる己を自ら忌避したのか彼はこの3日間、気配だけでけして姿を現さなかったのだから。
いずれにしろそれらの群れは、極度の疲労と安堵に満たされた医師達が手術室から這い出てくるまで世界一熱心な多宗教者であった。
医師からの説明を聞く前にそれぞれの顔にそれぞれの歓喜が鮮やかに浮かぶ。彼らは己らの祈り通り医師が技量以上の力を発揮し冥府への扉を閉ざしてくれたことを感じ取ったのだ。
こうして、めでたくも。
数多の人間の精神をかき乱すこととなった、10番目の大空と呼ばれる青年の3日間に及んだ三途の川漂流記は、生の岸辺にたどり着くことで終章を迎えたのである。
生還したドン・ボンコレはICUから医療機器の大軍に占拠された自室へと移された。一時意識を回復させ自分をのぞきこむ家族に目を細めたものの完全なる覚醒にはいたらなかったようでまだ眠り続けている。 最も時間帯でいえば当たり前の光景ではある。深夜のかいなに促され、歓喜と安堵と祝杯の虹色に包まれた屋敷も徐々に寝息に包まれていき静けさを取り戻した。
その寝息にようやく、雲雀は眉間のシワをのばした。仕方のないこととはいえ騒がしいことは好まない彼である。
彼は執務室に隣接する病室となった沢田の自室に入る。歴史と機能性に富んだ執務室からつながるボスの自室にはこっそり娯楽がある。雲雀はその娯楽の中のひとつを手に取りパラパラめくる。
事実は小説より奇なりというが、少なくとも今手にしている漫画より奇抜な人生を沢田綱吉は歩んでいるように彼には思えた。一体、何が楽しいのだか、と雲雀は鼻をならす。
その漫画自体のエンターテイメント性が低かったのか、雲雀の情緒にその存在自体が合わなかっただけなのか。つまらなさげに紙の集積物を、それでも彼は丁寧にもとあった場所へと戻した。
紙、カミ、神か。変な飛躍をした思考に苛立ちが淡く滲む。雲雀にとって漫画も神も興味の圏外にあったというのに、うっかり興味を向けてしまった沢田綱吉のせいで、しばしば意識を向けなければならなくなった。そのわずらわしさで気だるい。
どうも、すみませんでした、と寝台の上で頭を下げた沢田綱吉は体の90%が布団の中であった。そのため彼自身が下げたと思った頭の動きは痙攣よりまし、という程度である。
沢田は何かに対して謝罪をしたあと照れ臭そうに笑った。ねえ、と言った。
ねえヒバリさん、オレね、わかってましたよ。
みんな、オレの事神様やら仏様やら死神にまで祈ってくれていました。むくろもね、あいつちゃっかり来てましたよ、ここから先行きたければどうぞって業とらしく笑いながらこぶしを握って言うんです。あれいくなってことですよね、本当なんてこと言うんだって思いました素直じゃない。先生もね、なんかずっとそばにいましたよ。
なぜだか聞いていられなくなった雲雀は鼻をつまんでやった。ふがっと鳴く沢田をしばし見詰める。布団をはいで確認するまでもなく短足のチビの情けない汚ならしい沢田綱吉。裏社会の至宝VongolaX世が持つ深慮望遠なまなざしも今は雲雀を見つめるのがやっとだ。なんて彼はちっぽけなんだろう。なんて。
なんて彼の瞳の奥は命で燃えているのだろう。
摘んでいた指から力を抜くと、ぷはっと息を吐き出す音が間抜けに響く。あんた、ほんと、ひどいという言葉の合間に涙が沢田の瞳を覆い始め、きらきらと輝く。
「また三途の川見えたかも…」
「叩き込んであげようか」
「あんた本当、何がしたいの」
沢田のぐったりと閉じたまぶたを雲雀はなぜた。むずがるように眉を寄せた彼の口から出てきた言葉は、よせ、ではなかった。
「あなたもずっとオレを呼んでいましたね」
まぶたの上の手にいっそう顔を押し付ける、甘えるような仕草で沢田は先ほど中断された話を始めた。聞きたくはなかったが、今度は雲雀も止めはしなかった。
何かに祈るでもなく、オレを引き留めるのでもなく。死に逝くことなんて当たり前だって顔をして、ずっと。呼んでいたでしょう、雲雀、恭弥さん。オレにはまるで、こう聞こえたんですよ、死ぬなら死んでも構わない、ただ。
「君ごときが僕の前をふさぐんじゃない。例えそれが黄泉路だろうと僕の前に立つことは断じて許さない」
沢田は、まるでそんなセリフがどこかに書かれているかのように口にした。そして見えないカンニングペーパーを破り捨てる勢いで雲雀の手を顔から払う。あんたと心中なんかごめんですと吐き捨てて命の色が一段と濃くなった琥珀色の瞳を揺らす。耐え切れないというように歪ませる。沢田はまさに激情をもてあまし困り果てていた。動かせないはずの利き腕を使ってしまう程困り果てていた。
手を払われた雲雀は一瞬思考が空白になったがすぐに己を取り戻す。
重症とはいえそこはやはり赤ん坊の生徒、甘く見ていた己を戒めると同時に沢田の両腕を上から押さえ込む。更に視線をもからめとるように、ヘッドロックの要領で額同士を打ちつけた。流石にこれには雲雀も目じりが熱くなり、ごまかすように鼻筋を擦り付ける。もちろん沢田の鼻筋に。
作品名:ちゃんと世界を閉めていけ 作家名:夕凪