大丈夫
その日、学校から二駅ほど離れた商店街、歩行者通路に寄せて止まった見覚えのあるタクシーから長身の男が降りるのを見た。こざっぱりとした服装、他の人間と同じ二本足で立っているだけなのに姿勢良くすらりときまっている。
"急ぎのタクシー"、"一見変哲もない場所"、"悠然と立つ古泉一樹"。この三つで俺は何が起こっているのかを即座に言い当てる事が出来る。誰だって俺と同じ境遇にあったとすれば一目瞭然だ。
普段は常時ニヤケ面の古泉もこの時ばかりは笑っちゃいない。よく見ると視線をうつむけたり、右手を胸の前に出してにぎにぎ動かすのを見たり、妙にそわそわと落ち着きがない。以前ご一緒させられた時にはそんな様子は全くと言っていいほど見られなかった。慣れた仕草で、自信過剰気味に、俺をあの空間に案内して『スペクタクル』な状況の前にヘラヘラ笑っていたんじゃなかったか?
「今からか」
そんな、ツチノコをうっかり発見したような目つきで振り向かれても。ぽかんと開けた口はすぐに塞がって、見開かれた目もすっと薄目に変わる。
「こんな時に会うとは奇遇ですね」
普段と変わらない笑顔に反感すら覚えるほど柔らかい口ぶりだ。さっきまであれほどそわそわしていたくせに、人前だと認識すればすぐそうして繕うのか。
そういった私事はひとまず表に出さず、古泉に合わせてやる。
「休日出勤も本当に言ってたとおりなんだな」
「ええ、まあ。いつもの事です。いえ、いつもの事では困るのですが」
苦笑しやがった。そうやって笑ってる裏で「俺がハルヒのご機嫌取りを怠ってたから」とか思ってるんじゃないだろうな。 ――などと思っても、それは余計な話だ。何より、物騒な出撃前に不機嫌な顔を見せるのは酷だと判断した俺なりの気遣いでもある。
「では、お察しの通り少々急ぎの件です。行きますね」
「おい」
「はい?」
どうして呼び止めちゃったんだろうね。
普段とは違う落ち着かない態度や、俺に対して必ず在るであろうちょっとした反感をひた隠しにされている事が気に掛かったといったところか。
「折角だし、連れてけ。応援ぐらいしてやる。俺だって無関係じゃないんだろ?」
自分でも思っていなかったような申し出を、口に出していた。すぐ目の前で出撃しますというところを、ハイ頑張って下さいそれじゃあまたねとも言えないだろ。社交辞令のような、咄嗟の言葉のような、おそらく非常に曖昧な感覚で申し出てしまった。
古泉にとって、ありがたい申し出でない事は判っているのに。
「無関係だと言い切れないのは事実ですが……関係有りだからこそ、通常通り待機していただきたい」
「前の時は俺をひっ捕まえて行ったくせに」
「あれは、あなたの信頼を得る為、あなたの自覚を促す為でしょう。比較的小規模で危険が少ない時を選んだつもりですし」
「小規模?」
そういやそんな事を言っていた気がする。
あれでもまだ小規模なもの、というような事を帰りの車で言っていた。
「はい。あの時の倍の倍ぐらいでしょうか。今日はそこそこに危険があるでしょう」
危険、の言葉と同時に古泉の睫毛が大きく揺れたような。
きっと瞬きをしただけだ。
「大丈夫なのか?」
考えるよりも先に口が出るってこういう事なのか。
そうだ。大丈夫なのか、古泉は。さっきの大きな瞬きや、俺に気づく前にざわついていた右手。俺が知っている笑顔で覆われた古泉ではなかった。俺の見ている前で隠されたようなもんだからな……
古泉は非常に感慨のない頷きを返してきた。
「出撃は毎度なんだろうが、不安がなくなってるわけでも」
「恐怖には慣れました」
急に言葉を遮られ、かつ何でもないようにとある否定がなされた。俺の方へ振り向いた時に作った笑顔はそのまま貼り付いているだけの表情で、なんとも古泉らしくない雰囲気を一層深めていく。
「やっぱり怖いのか?」
「それは、僕の事を心配してくれてるんですか?」
古泉は笑顔を作り直して俺に聞いてくる。こっちが質問してんだろが、先に答えろよな。
「そうかもしれんな。気にならないと言える立場じゃない事は確かだ」
「そうですか。ありがとうございます」
「礼を言われるほどの事は言ってないぞ」
「あなたのお気遣いほど嬉しいものもありませんよ」
そう言ったその瞬間ばかりはいつもの爽やかハンサムだった。間違いない。
古泉は乗ってきたタクシー、いや、タクシーの運転手にちらりと目を配った。
「少々時間がおしているようです、急ぎますね」
「ああ。呼び止めてすまなかったな」
「いいえ。では……失礼」
古泉がゆっくりと目を伏せて、こつりと一歩踏み出すところまでは視認できた。そこから先は、掻き消えるでもなく粒子のようにどこかに吸い込まれていくでもなく、ふっと古泉の姿が透き通り、向こう側の景色が見えたと思うともう居なくなっていた。
気づけば古泉がそこに居たのか居なかったのかと曖昧な感覚に包まれる。 さっきまで話していたのに、どういう事だ? 閉鎖空間に入っていくというのは本人の肉体だけでなく、 周囲に与える存在認識さえもそっと消してしまうものなのだろうか。
だが、俺はさっきの古泉が普段とは毛色の違う不安じみた雰囲気を瞳に湛えていたように記憶している。古泉が移動に使ったタクシーだって、まだここで待機している。
慣れた溜息をついて、タクシー傍のガードレールに腰をもたせかけた。運転手は待ちに入った俺をちらりと確認したが、特に動く様子もなくそのまま待機を続けるようだった。
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「あれ? また会いましたね」
案の定と言うべきか意外な事にというべきか、古泉は徒歩で戻ってきた。結構近くで終わらせてきたようだ。タクシーのエンジンがかかったら引き止めて乗せてすらもらうつもりでここに居たんだが、そうして出待ちしていたのが偶然のように見えるのかよ、お前は。
「奇遇だな」
「そうでしょうか、奇遇という状況には見えません」
笑って肩をすくめているがな、先にそういう演出をしたのはお前じゃなかったのか。巧みに言葉をしならせて話し相手を絡め取る、古泉の話し方はある種のスムーズさを持っているが、芯がある故に揺らぐと大きい。
外見はあくまでも笑顔、見た目普段通りの古泉に見える。
いや。普段通りと言うには少々足りない。お疲れ気味といったところか。時々小さな深呼吸をして、呼吸の乱れを隠している。前回見た時はせいぜい前髪を手櫛で梳いて整え、戦場の熱気すらその身に残しちゃいなかった。出撃前の古泉が不安げに見えたのは、矢張り閉鎖空間を懸念してのものだったようだ。汗一つこそかいていないが、苦戦したのだろうと予想がつく。
「どうしました?」
「いんや。よくやるなと思ってただけだ」
「これが僕の主な任務ですから。それよりあなたはこんなところで立ち止まっていてよかったのですか?」
もう三十分は経っているのですが、と古泉は自分の腕時計を見やって、次に俺の顔を見た。その顔は人の時間を心配しているような顔には見えない笑顔だと思う。 TPOをわきまえない通常営業の笑みだ。古泉なりの作り真顔、それは逆に表情のない奴だと感じさせられる。