月色の狼
その狼はいかにも奇妙だった。
俺のような草食動物を見ても、ぴくりとも動かない。腹が減っていないのかとも思ったが、その目は本能でぎらつき、今にも噛みつかんばかりだ。やせ細った体は、それでもなお洗練された筋肉の美しさを映す。そして、何より奇妙だったのがそれの毛の色だった。それは、月の光を透かしたような、綺麗な金色をしていた。太陽ほど派手ではない。あれの光をもっともっと淡くして、本当に美しいところだけを残した、満月の色だ。
気がつけば、俺はそれに近づいていた。俺が近づいてもやはり動かないそれは、いつか人間の巣(「家」と人間は呼ぶらしい)で見たはくせい、と言うものに似ていた。しかし、風になびく毛の色艶と失われない瞳の輝きだけが、確かに存在する生を感じさせた。
喰われたらどうしようなどと言う懸念ははじめから存在しなかった。喰われる気などさらさらなかったし、万一襲われたとしてもその時はその時だと思っていた。俺だって、伊達に一匹で生きてきたわけではないのだと。
狼の足なら二つ程飛べば十分届くであろうところまで来たとき、予想外の声が降ってきた。
「こっちに来んな」
少年と青年の中間の、苛立ちを存分に含ませた声にほんの少し心臓が跳ねて歩を緩める。
「へぇ、喋れるんだ」
喉の奥でくつくつと笑うと、嫌そうな顔。
「うるせぇよ。喰われたくなかったらさっさといなくなれ」
低くうなり、牙をむく。尾を逆立てた威嚇の姿勢だが、身を低めて飛びかかる体勢を取らないからはったりだろう。今までたくさんのものを見てきたのだ、そのくらいのことは分かった。ただ、空腹を感じているはずなのに俺を食べようとしないその意図だけがよく分からない。肉食動物はそれらしく無様に肉を貪っていればいいのだ。草食動物が侘びしく草を食むように。
「ハハ、変な毛の色をしてるから分かりにくいけど、君狼だよね?普通逆じゃない?食べるから近づいて来いって思うよねぇ」
嘲笑混じりの言葉が出る。
「お前には言われたくねぇ」
狼は明後日の方向を向いてぽつりと言った。
「毛の色の話?黒い兎なんてそこまで珍しくないと思うけど」
「……そんな夜の空みたいに真っ黒な奴、お前が初めてだ」
チラリとこちらを窺う仕草はまるで小動物のそれで、狼の印象をぐっと幼くする。俺と目が合うと、また目線を逸らし、しばらく宙を泳がせてからそれはまた口を開いた。
「…つーか、お前、兎なんだろ?だったら喰われないように静かに隠れてろよ」
「うーん……俺もいつもならそうしてるんだけど、君、俺のこと食べるつもり無いらしいし」
わざと明るい声で言えば、短く息をのむ音。ぴょんと一跳びして、狼の顔を覗き込むと、草でも噛んだような顔で俯いている。
「君さぁ、お腹空いてるでしょ?何で俺を食べようとしないのさ」
俺が一歩前に出ると、狼は怯えて一歩後ずさった。これじゃあどっちが喰われるんだか分かったものじゃない。狼の前足が土を強く握り締め、地面に爪の痕がついた。
「……んだ」
「え?」
ぼそぼそとしたうなりが聞こえて、俺が聞き返す。
「もう、誰も殺したくないんだよ」
狼の声とは思えないほどか細い声が響いた。
「でも、俺は誰かを傷つけなきゃ…殺さなけりゃあ生きていけないから……」
「君、仲間を殺したの?」
「っ……」
言葉に言葉を重ねると、狼の顔が悲痛に歪んだ。涙を流していないのが不思議なくらい悲しい顔だった。金色の上を伝う涙は銀色に輝いてさぞかし綺麗なことだろう。
「殺したんだね?」
「……なんで、」
追い打ちをかけると、絞り出すような声。
「だって、肉食獣が草食動物を殺すのは当たり前だろう?俺たちが草を食べるのと同じで、それが無けりゃ生きていけない。
君がそんなに罪悪感を感じるってことは仲間を殺したって事でしょ?
ま、群れで行動するはずの狼が一匹でいるって事自体おかしいからね。尤も君の場合、毛の色からして最初から一匹って事もあり得るけど」
所詮は憶測を出ない言葉だったけれど、俺には結構な自信があった。案の定狼は俯いたまま言葉を紡ぎ始めた。
「俺は…」
俺は、いつもそうだった。変な毛の色もそうだけど、それよりも問題だったのが俺の強すぎる力だった。俺は触るもの触るもの全て壊した。仲間を守るつもりでも、俺の力は諸刃の剣で、しかもその刃は俺を易々とすり抜けて仲間を傷つけた。そのうち、俺の周りには家族と一部の奴らを除いて誰一人いなくなった。
俺と親しくしてくれた数少ないものたちの中に一匹の幼い息子を持った若い雌がいた。その息子が俺を兄のように慕っていて、その母親はいつも俺を息子や弟のように扱ってくれた。俺はその女が好きだった。恋とか憧れとか、そんなのはどうでもよかった。とにかく好きだった。だからその女がほかの群れの奴らに囲まれているのを見たとき、全身の血が沸騰したかと思った。
気がついたときには何もかも遅かった。我に返ったときにはその場で息をしている奴は俺しかいなかった。
初めて触れた肌は既に冷えかけていた。
それからの記憶は定かじゃない。ただ、あの女の息子が「兄ちゃんなら母さんを連れて帰ってきてくれるよね。兄ちゃんは強いから、母さんをかえしてくれるよね」と俺に言ったとき、俺は群れを離れようと思った。どのみち、仲間殺しは御法度だから、群れは離れなくちゃいけなかった。
群れを離れて初めは、何も食べる気が起きなかった。ただ、飲まず食わずで3日たった頃、俺の前を一匹の鹿が通った。その後はまあ、何となく予想はつくと思うが、俺はそれを喰ってた。俺は驚いた。怖いと思った。汚いと思った。俺の気持ちなんてそこには少しもなかった。本能が全て突き動かした結果だった。
もう何も殺したくなかった。でも俺が生きている限りは何かが死ななくちゃいけなかった。俺のために。だから、
「だから、俺が何も殺さなきゃ、俺は死ねるかと思ったんだ」
「…ハ、ハハ、アハハハハハハハ!」
「何がおかしい」
狼が途切れ途切れに話し終えると、俺の口からは堰切ったように哄笑が溢れ出す。狼は低くうなり、瞳に怒りの色を宿す。
「まあそんなに怒らないでよ。興味深いよ、この世界にもそんなことを考える奴がいるなんて」
怒りに戸惑いの色が混じる。後ろ足が一歩後ずさる。何でもなかった存在が、今はとてつもなく愛おしく感じた。
皮肉なものだ。この世界では生き残りたいがために皆強さを求める。なのに圧倒的な強さを持ったこの存在はその中の何よりも死を求めていた。
「君、名前は?」
「は?」
「あるだろ?名前くらい。俺はイザヤ。君の名前は?」
狼はしばし呆けた後、小さくシズオ、と答えた。
「ふぅん…シズちゃんか」
「シズッ…………」
彼はしばらく絶句して、言葉を発した。「そんなもん知ってどうするっつーんだよ」
俺は笑って言葉を唄う。
「だって、一緒にいるには呼び名が必要だろう?」
今度こそ彼は出すべき言葉を失った。目を見開いて、薄く開いた口からは細く呼気がたなびく。月が緩く傾くぐらいか、それとも風が一吹きした程度だったのかもしれない。とにかく時が過ぎて、シズオはやっと色気もへったくれもない言葉を吐き出した。
「お前、自殺志願者か?」
作品名:月色の狼 作家名:みずき@ついったー廚