太陽と刃
太陽の、香りがする。懐かしい香り。ああそうだ。母さんが俺を抱きしめてくれた時に、決まってこんな香りがしたのだ。
優しかった母さん。美しかった母さん。温かい手が大好きで、大きくなったら自分がこの手を守るのだと心に決めていた。今にして思えば幼稚なその願いは、実現することなく消えた。
あの日母さんは俺をぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと言った。『もうお前のことをこうして抱きしめる日は来ないのかもしれない。だからお前も、覚悟しておくのですよ』その時の母さんの言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。ただ普段とは違う怖いほど真剣な声だけが強く印象に残っている。『それはどういう意味なの?』と尋ねた俺に、いまだ母さんは返答をくれていない。
母さんが俺だけを残して出て行った部屋はガランと広かった。ピンと張りつめた静寂を、突如破ったのは絶叫と怒号。窓の外から聞こえてくるそれは、子供だった俺の心臓を凍てつかせるには十分だった。やっとの思いで窓に近付いても、垂らされたカーテンのせいで外の情景が見えない。カーテンさえ。このカーテンさえ払えばそこに何があるのか見える。ほら、早く布を引くんだ。どれだけ心の中で自分を叱咤しても、震える手は動いてくれない。動け。早く。動け、動け、動け動け動――
『やめときな』
後ろから突然かけられた声に、文字通り飛び上がった。恐る恐る振り返ろうとしたけれど、間髪置かず足元から地面がなくなった。どうやら抱き上げられたらしい、と遅ればせながら気付く。見下ろしたのは、大きな帽子、顔の半分以上を隠した仮面と、その奥で鋭く輝く2つの瞳。
『あんなモン、子供は見るんじゃねェ』
低い声が腹の底をびりりと震わせる。俺はただ目の前の男の威圧感に圧倒されて、抵抗らしい抵抗もできずに男を見つめるしかなかった。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、男は俺の体を床に下ろして、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた。仮面越しなのに、困った顔をしているのがよくわかった。
『お前だな、ビザンティンの息子ってのは。名前は?』
『……ギ、ギリシャ……』
反射的に答えると、『ギリシャだな』と低音が繰り返した。不思議によく通る声だ。
『俺ァトルコってんだ。言ってみな』
『トル、コ……?』
『そうだ。お前は、今日から俺と住むことになった』
ほれ、行くぞ。差し出された手の意味がわからなくて、俺は首をかしげたままぼんやりと立っていた。どうして自分がこの男――トルコと一緒に住まねばならないのか。だって俺には母さんがいるのに。
『そうだ、母さん……母さんは?』
再び仮面を見上げてみれば、そこにはありありと苦い色が浮かんでいた。俺と目を合わせるのを避けるように顔をそらされる。それでも横顔は隠しきれるものではなくて、俺は自分の鼓動が速まるのを感じた。
『……お前の母ちゃんは、もういない』
『へ……? いない、って……』
『ビザンティンは滅んだ。彼女は死んだんだ』
しんだ、という言葉の意味が理解できなくて、自分でも口の中で唱えてみる。しんだ。かあさんはしんだ。もういない。もう俺を抱きしめてくれることはない。
心がおかしな音を立てて軋んだのを感じた。頭が痛い。事実を認めるのが嫌で、でも確かめないわけにはいかなくて、目の前にある長いローブをつかんだ。
『……どうして、母さんは……しんだの?』
『……俺が殺したからだ』
しんだ。ころした。ころしたから、しんだ。トルコが、母さんを。優しかった俺の母さんを――殺した。
『う、あぁ……あ、あああああああ!』
言葉にはなっていなかった。声だけが喉からあふれて押えられなかった。すぐそばのテーブルに載っていた母さんの彫刻刀を手に取ったのも、それをトルコに向かって突き出したのもほぼ無意識の行動だった。刃先がローブを引き裂く寸前でがっちりとつかまえられ、目的はあえなく阻止されてしまった。
『離せ! 離せよ!』
『あいにくだがそれはできねェなぁ』
渾身の力を込めても。刃をつかんだ手はびくともしない。片手一本にすら勝てない自分の非力さが悔しくて、それ以上に母さんがもう帰ってこないことが悲しくて、涙がぼろぼろこぼれるのを止められない。
『殺してやる……畜生、殺してやる……!』
『おーおー。勇ましいこった』
仮面に隠されていない口元が皮肉な笑みの形に裂けたのと、彫刻刀の刃の部分をつかんだトルコの手から流れ出した真っ赤な血。涙で滲んだ視界の中でも、この2つだけははっきりわかった。周囲に漂う鉄錆の匂い。この男から太陽の香りはしない。
『悔しいか。俺が憎いか。殺したいか』
口にするまでもない。彫刻刀を握る手に力を込めすぎて、指の感覚が麻痺してきた。けれど手を離しはしない。母さんの仇が目の前にいるのだから。
『だったら強くなれ。強くなって、いつか俺のことを本気で殺しに来い』
唐突にトルコが刃を強く振り払ったせいで、柄を握っていた俺までが床に投げ出される。悔しい。軽くあしらいやがって。
流れる血に構わず、トルコが俺の襟首をつかんでひょいと持ち上げた。トルコの顔を正面から見据える高さまで吊り上げられる。暴れてもどうせ無駄なことくらいわかっていたから、せめてもの反抗に思い切り睨みつけてやる。
『今日からテメェは俺の領土だ。わかったな、クソガキ』
『いつか絶対に殺してやる』
優しかった母さん。美しかった母さん。温かい手が大好きで、大きくなったら自分がこの手を守るのだと心に決めていた。今にして思えば幼稚なその願いは、実現することなく消えた。
あの日母さんは俺をぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと言った。『もうお前のことをこうして抱きしめる日は来ないのかもしれない。だからお前も、覚悟しておくのですよ』その時の母さんの言葉の意味が、俺にはよくわからなかった。ただ普段とは違う怖いほど真剣な声だけが強く印象に残っている。『それはどういう意味なの?』と尋ねた俺に、いまだ母さんは返答をくれていない。
母さんが俺だけを残して出て行った部屋はガランと広かった。ピンと張りつめた静寂を、突如破ったのは絶叫と怒号。窓の外から聞こえてくるそれは、子供だった俺の心臓を凍てつかせるには十分だった。やっとの思いで窓に近付いても、垂らされたカーテンのせいで外の情景が見えない。カーテンさえ。このカーテンさえ払えばそこに何があるのか見える。ほら、早く布を引くんだ。どれだけ心の中で自分を叱咤しても、震える手は動いてくれない。動け。早く。動け、動け、動け動け動――
『やめときな』
後ろから突然かけられた声に、文字通り飛び上がった。恐る恐る振り返ろうとしたけれど、間髪置かず足元から地面がなくなった。どうやら抱き上げられたらしい、と遅ればせながら気付く。見下ろしたのは、大きな帽子、顔の半分以上を隠した仮面と、その奥で鋭く輝く2つの瞳。
『あんなモン、子供は見るんじゃねェ』
低い声が腹の底をびりりと震わせる。俺はただ目の前の男の威圧感に圧倒されて、抵抗らしい抵抗もできずに男を見つめるしかなかった。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、男は俺の体を床に下ろして、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた。仮面越しなのに、困った顔をしているのがよくわかった。
『お前だな、ビザンティンの息子ってのは。名前は?』
『……ギ、ギリシャ……』
反射的に答えると、『ギリシャだな』と低音が繰り返した。不思議によく通る声だ。
『俺ァトルコってんだ。言ってみな』
『トル、コ……?』
『そうだ。お前は、今日から俺と住むことになった』
ほれ、行くぞ。差し出された手の意味がわからなくて、俺は首をかしげたままぼんやりと立っていた。どうして自分がこの男――トルコと一緒に住まねばならないのか。だって俺には母さんがいるのに。
『そうだ、母さん……母さんは?』
再び仮面を見上げてみれば、そこにはありありと苦い色が浮かんでいた。俺と目を合わせるのを避けるように顔をそらされる。それでも横顔は隠しきれるものではなくて、俺は自分の鼓動が速まるのを感じた。
『……お前の母ちゃんは、もういない』
『へ……? いない、って……』
『ビザンティンは滅んだ。彼女は死んだんだ』
しんだ、という言葉の意味が理解できなくて、自分でも口の中で唱えてみる。しんだ。かあさんはしんだ。もういない。もう俺を抱きしめてくれることはない。
心がおかしな音を立てて軋んだのを感じた。頭が痛い。事実を認めるのが嫌で、でも確かめないわけにはいかなくて、目の前にある長いローブをつかんだ。
『……どうして、母さんは……しんだの?』
『……俺が殺したからだ』
しんだ。ころした。ころしたから、しんだ。トルコが、母さんを。優しかった俺の母さんを――殺した。
『う、あぁ……あ、あああああああ!』
言葉にはなっていなかった。声だけが喉からあふれて押えられなかった。すぐそばのテーブルに載っていた母さんの彫刻刀を手に取ったのも、それをトルコに向かって突き出したのもほぼ無意識の行動だった。刃先がローブを引き裂く寸前でがっちりとつかまえられ、目的はあえなく阻止されてしまった。
『離せ! 離せよ!』
『あいにくだがそれはできねェなぁ』
渾身の力を込めても。刃をつかんだ手はびくともしない。片手一本にすら勝てない自分の非力さが悔しくて、それ以上に母さんがもう帰ってこないことが悲しくて、涙がぼろぼろこぼれるのを止められない。
『殺してやる……畜生、殺してやる……!』
『おーおー。勇ましいこった』
仮面に隠されていない口元が皮肉な笑みの形に裂けたのと、彫刻刀の刃の部分をつかんだトルコの手から流れ出した真っ赤な血。涙で滲んだ視界の中でも、この2つだけははっきりわかった。周囲に漂う鉄錆の匂い。この男から太陽の香りはしない。
『悔しいか。俺が憎いか。殺したいか』
口にするまでもない。彫刻刀を握る手に力を込めすぎて、指の感覚が麻痺してきた。けれど手を離しはしない。母さんの仇が目の前にいるのだから。
『だったら強くなれ。強くなって、いつか俺のことを本気で殺しに来い』
唐突にトルコが刃を強く振り払ったせいで、柄を握っていた俺までが床に投げ出される。悔しい。軽くあしらいやがって。
流れる血に構わず、トルコが俺の襟首をつかんでひょいと持ち上げた。トルコの顔を正面から見据える高さまで吊り上げられる。暴れてもどうせ無駄なことくらいわかっていたから、せめてもの反抗に思い切り睨みつけてやる。
『今日からテメェは俺の領土だ。わかったな、クソガキ』
『いつか絶対に殺してやる』