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可愛い女になりたかった

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 しかし、その思惑は中途半端に終わってしまう。香子の声は、漏れ聞いたものよりずっと澄んでいた。驚きのあまり立ち止まってしまう。結局、通り過ぎた三歩半の向こうで香子はひなたの足元を指差した。
「くつ」
 慌てて下を見ると、右の靴紐がほどけている。しゃがみこみ、膝に荷物を置いて結びなおしていると、視線を感じた。ドキドキする。美人の視線はずるい、ともぞもぞする唇を引き締めてちょうちょ結びを完成させる。キュッと、音がしそうな結び目を完成させると、あとはやることはひとつだった。立ち上がって、言う。
「……ありがとうございました」
 ひなたの声に、香子は目をまあるくさせた。それはなんだか意外な光景だった。
「どういたしまして」
 気のない素振りは相変わらずで、声だってそっけない。なのにひなたは立ち去りがたくなってしまうほど、意外だった。何なんだ、とよく分からない気持ちに首をひねっていると、また視線を感じた。顔を上げると香子はじっとひなたの足元を見ている。
「ほし」
 あどけないような声だった。指先はひなたの靴ひも、ピンク色の星柄を指している。子供っぽさを指摘されたようで頬を赤らめたひなただったが、香子の表情を見ると、なんだか違うようだった。路上にチョークで絵を描いている、子供のような顔だ。すぐに消えてしまうものを熱心に見つめる、柔らかな諦めがそこにはあった。そんな表情だと、あの零と一緒だったときの空気が嘘のようだ。ポカンとしたひなたの様子に気づいたのだろうか、香子は顔を上げると肩をすくめた。
「行かないの?」
「い、行きます」
 ギクシャクと体の向きを変えたひなただったが、つい、振り向いてしまった。香子は無表情に橋の隙間を見つめている。まるでそこから待ち人が現れたら、全ての願いが叶うのだとでも言いたげに。そんなことは起こらないと知っている表情で。
(あぁ、もう!)
 ひなたはなぜ自分がこんな気持ちになるのか、分からないまま香子に近づく。目の前まで来て、ズイッと差し出したのは祖父の作ったお菓子の入った箱だ。
「あげます」
 ここで会ったのも何かの縁だから、と言い訳がましく言うと、ふうん、と呟いて香子は箱を受け取った。つまらなそうに包装紙を撫でる、指の爪が綺麗なピンクだった。その動きをどこかうっとりと見ていたひなただったが、次の声に我に返る。
「ちゃんと零に渡すわよ」
 指はインクをそっと撫でていた。そこから目を離して、ひなたは叫ぶ。
「ちっがーう!」
 本当に驚いたこの人を見たのは初めてかもしれない、と頭のどこかが冷静に言ったけれど、実際のひなたは顔を真っ赤に叫ぶだけだった。
「これは、あなたに、あげたの!」
 フンッと鼻息を荒くついて、元来た道を戻り始める。零ちゃんには今度またあげよう、と胸のうちで唱えながらズンズンと進む背中に、これまで聞いたことのない伸びやかな声がかかった。
「ねぇ!」
 むっつりと振り返った先で、香子は吸い込まれるような目をしていた。なんだか怖いような気持ちになる。飲み込まれまいと、強がって睨み付けるような顔になった。そんなひなたに構わず、香子は言う。
「これ、なに?」
 そういえば説明していなかった、とひなたはちょっと慌てる。
「お、おかし!」
 すると香子は微かに顔をしかめた。
「これ、あのお揚げみたいに甘すぎるんじゃないでしょうね?」
 ピンと張った糸のようなひとから、「お揚げ」という言葉が出てくるのは正直意外だった。なんだか、あの日荒げた声から自分がずれてしまいそうで、ひなたはますます慌ててしまう。
「そ、そんなことない!おじいちゃんのお菓子は、すっごくすっごく美味しいんだから!」
 むきになった声に、返ってきたのは「ふぅん」というなんだか信頼性に欠ける声だ。包装紙に描かれた絵を見つめていた香子は、視線を変え、ますますふくれっつらになったひなたを見て目を細めた。声も、表情も、まるで水面の光が目に入ってしまったように見えた。さっきしっかりと結いなおしたはずの、足元が揺れそうだ。
「かわいいわね」
 唇を尖らせながらひなたは思う。そんなことを言う香子は、全然可愛くない。笑顔は、ただ、とても綺麗なだけだった。
作品名:可愛い女になりたかった 作家名:フミ