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Dear Monster

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すでに日付も越えてしまった真夜中。マンションの一室で、青年は密やかに笑った。彼はこの部屋の住人ではない。部屋の本当の主は、青年に馬乗りになられたことも気付かないままぐっすりと眠っている。青年は、見下ろす金髪にそっと指を通した。

「無防備だなぁ、シズちゃんは」

慈しむように髪を梳く手つきとは裏腹に、口調には皮肉っぽい嘲りが混じっている。その唇を歪ませるのは紛れもない嘲笑。にやにやと笑いながら、青年は自身がシズちゃんと呼んだ彼――平和島静雄の肩を揺さぶった。

「シズちゃん起きて」
「ん……?」

寝息の延長のような吐息をもらして、緩やかなカーブを描く静雄の瞼が震えた。間近で見れば意外に長く揃った睫毛がゆっくりと持ち上がり、その奥にある瞳が現れる。寝起きのせいかぼんやりした瞳が周囲を確認し、目の前の人影を認識し、それが誰であるかを脳が理解した瞬間、覚醒を一気に通り越した怒りによって見開かれた。

「て、め……っ!?」

持ち前のずば抜けた反射神経と常識はずれの筋力を駆使して、静雄は跳ね起きた。――否、跳ね起きたはずだった。しかし、実際は起き上がるどころか首すら満足に回せない。全身が重苦しい倦怠感に包まれている。まったく言うことを聞かなくなった身体の異常に戸惑いながら、静雄は自分の腹にまたがった男をきつく睨みつけた。

「てめぇ、臨也……何しやがった……」

本当は「どうしてここにいる」「どうやって入った」と詰問したかったが、力が入らないため顎がだるく、短い文章を口にするだけでも精いっぱいだ。自分への不甲斐なさや、勝手な侵入に気付かなかった悔しさすら怒りに変えて、静雄はぎらぎらと燃えるような眼光で睨みつける。そんな静雄の様子を見ながら、臨也はますます笑みを深くした。

「別に、まだ何もしてないよ。ちょっと動けなくなる薬を飲んでもらっただけ」

いやあ、眠ってる人間に何か飲ませるのって大変だよね。ちょっと苦労したよ。あ、依存性はないらしいから安心してね。お得意の饒舌を披露し、臨也はわざと朗らか笑った。対して静雄は凶悪な表情で臨也を睨み返す。

「ふざ、けんな……殺すぞ」
「ふ……できるの?」

地を這う静雄の恫喝にも、臨也は涼しい顔だ。逆にコートのポケットから愛用のナイフを取り出し、ぴたりと顎下に突き付ける。真横に刃を滑らせれば、朱線が静雄の肌にじわりと浮いた。喉元を伝って流れ落ちる血がシーツに染みをつくる様子を見ながら、臨也は目を細めて舌なめずりした。

「動けないでしょ? そんなんでどうやって俺を殺すのかなぁ?」
「黙れ……」

低く呻いて静雄は歯噛みする。怒りのためぶるぶると震えている引き締まった腹を腿で挟み込んだまま、臨也はナイフの切っ先をつうっと下に滑らせた。

「ねぇシズちゃん。怖い?」
「っは……てめぇなんかが、怖いわけあるか……このノミ蟲」

薬のせいで弛緩した顔の筋肉を無理矢理動かして、静雄は好戦的にニヤリと笑ってみせた。殺気がみなぎるその笑顔を見下ろして、臨也もまた悪意に満ちた笑みを浮かべた。

「そうだよね。シズちゃんには怖いものなんてほとんどないよね」
「少なくとも、てめぇなんか……怖がったり、しねぇ」
「ふふん、だよね……ところでさ、人間――いや、生き物にとって一番大切な感情が『恐怖』ってこと、知ってた?」
「……はぁ?」

突然何を言い出すやら。また得意の屁理屈でこちらを惑わせる気か。胃の奥にもやもやとした苛立ちが渦巻く。普段の静雄であれば容赦なく目の前の男を殴り飛ばしているところだが、体が動かないせいでそれも叶わない。特異な怪力はおろか、普通の人間ができる抵抗すら今の静雄には許されない。そんな静雄を、表情のない目で見下ろしながら臨也は語り出した。

「『恐怖』はね、生命を守り、維持するために最も大切な感情なんだよ」

恐怖がなければ、どんな危険にも怯まなくなる。すなわち、危険から命を守らなければならないという危機感がなくなる。危機感がなくなれば、死を恐れない。死を怖れない人間は、生に対する執着が薄れる。

「……ね? だから恐怖を持たない生き物は、生きていくことができないんだよ」
「……」

臨也は何を言っている? 確かにこれはいつも通りの下らない詭弁。戯言。にやにやといやらしい笑顔も含め、虫酸が走るほど嫌いな屁理屈。けれどとっさに声が出なかったのは何故だろうか。薬のせい、ではない。静雄は今、憎むべきこの男から妙な威圧感を感じていたのだ。遮ってはいけない。聞かなければいけない。本当は聞きたくなんかないのに。相反するふたつの感情が心の中で同時に叫んでいる。さあ聞け。聞くな。臨也の言葉を。

「じゃあ、ここで問題です。今、俺はシズちゃんの気道の上にナイフを立ててます」

その言葉と共に、柄を垂直に立てて真っすぐに気道を狙う。筋肉のあるところでは5ミリ程度しか刺さらなかったナイフも、皮膚のすぐ下にある気道を切り裂くことはできるだろう。気道に激しい損傷を追えば、生命の危険に晒されることは確実だ。

「ほら、今の動けないシズちゃんじゃ、俺の手は振り払えない。このまま刺されたら、さすがのシズちゃんも死ぬでしょ」

ねぇシズちゃん。
静雄。
平和島静雄。

「君は、今、俺が怖い?」

冷たい刃をぐいと喉に押しつける臨也の目は、感情を消して凍てつきそうだ。びりびりと肌を震わせる錯覚すら起こすほどに。ナイフが走った傷より痛い視線に貫かれながら、静雄は臨也の言葉を反芻する。
自分が怖いか、と臨也は言った。動けない静雄に馬乗りになり、絶対的優位からナイフを突き付け、命すら奪えてしまう臨也を恐れるか、と。静雄は考える。自分は今臨也を恐れているか? 自分が感じている威圧感の正体は恐怖なのか? そもそも、恐怖とはどんな感情なのか――?

「……」
「……ふん。混乱してるって顔だね。『気持ちとしては怖いなんて認めたくない。けど、それは果たしてただの強がりなんだろうか。本当に怖いと感じていないだけじゃないんだろうか。そもそも、恐怖とはどんなものなのかがはっきりしない』ってところかな」

心臓の奥がひやりとした。臨也の人間観察癖は今に始まったことではないし、静雄自身も何度も内心を言い当てられ、それが原因で喧嘩に発展することだってしばしばある。けれど今この瞬間だけは、怒りよりも不気味な戸惑いの方が大きかった。こちらの心の動きを暴き出したくせに、自分の思惑は悟らせない。本当に嫌な男だ。

「シズちゃん。君さ、本当に正常な人間なのかな?」
「は……? 何、言って……」
「ううん。人間どころじゃない。正常な生き物なの? だって死の淵に立たされてるのに、心音ひとつ乱れない」

ほら、と臨也が空いた手を静雄の胸に当てる。左胸、ちょうど心臓の真上。静雄もそこに意識を集中させる。力強く全身に血液を送るポンプはいつも通り規則正しく動いている。そう、いつも通り。鼓動はほとんど加速もせず、正確なリズムを刻んでいた。いたって正常、だからこそ異常。恐怖も感じない自分は、一個の生命体として、並はずれて異常。

「異常だよ。おかしいよ。君はおかしい。何かが足りない。何かが間違ってる。何かが狂ってる。ね、シズちゃん」
作品名:Dear Monster 作家名:とおる