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幸福な夢を見る

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 春休みと合わさって更に休日ということで、街には平日とは比べものにならないほどの人であふれていた。冬の厳しさをまだ忘れていない風は人々に薄手のコートを纏わせるにはふさわしくなかったが、暖かに射す日差しのおかげで、外出する気力までは奪われずにすんだ。
 それぞれの目的のまま歩き回る彼らを、器用に避けながら帝人は午後の池袋を歩いていた。これだけ天気がいいと部屋に引きこもっているのがもったいないという気持ちからだったが、それは悪くない考えのようだった。頬を叩く日差しは昼過ぎまで眠っていた頭をやさしく醒ます効果がある。昼食を取ってこんな陽にあたれば逆に眠たくなってしまいそうだが、生憎と意識ははっきりしていた。
 ――さあ、これからどうしよう。
 パーカーのポケットに手を突っ込んで、帝人は黙々と足を進めていたが、目的というやつは特になかった。主に昼食のためだけに外に出たものだから、財布の中にろくにお金が入っていないので買い物もできない。このままでは、ただ漫然と足を動かして終わりだ、というのは特に考えなくても理解できる。が、それも悪くないと帝人は思った。ここのところ、色々考えなくてはならないことが多すぎた。たまには何も考えず街を歩くのもいいかもしれない、と。
 ――西口にでも行こうかな。
 普段は買い物の便利さでもっぱら東口側を歩くことが多かったから、あまり西口側に足を運ぶことは少ない。ただ、あちらの方が人でごった返すこともないだろうし、のんびり散策するのには向いているだろう。
 そうと決まればと、沢山の人で溢れている大通りを抜け、地下道を行く。そこを抜ければすぐに西口側で、久しぶりに見たあちら側とはまた違う猥雑な雰囲気に彼は目を細めた。
 帝人の足は自然と池袋西口公園に向かっていた。今は彼の場所にそれほどの思い入れは持っていなかったが、のんびりするには悪くない雰囲気の場所だ。
 予想したとおり、公園の人ではさほどでもなかった。友人同士や家族連れの姿はちらほら見えたが、あまりかちあいたくない人種はいないようである。漫然とあたりを見渡し、とりあえずベンチにでも座ろうかと思ったところで、帝人はその人に気がついた。
 よく見る、ファーのついた黒コートの人物。その人は、首を振りながら地面をぼんやりと歩く鳩の群をぼんやりと見つめていた。らしくなくくたびれた雰囲気に少し首をひねるが、折角だから挨拶をしようと彼に近づいた。
「臨也さん」
「……」
「臨也さん?」
 少し、声を大きくした帝人に鳩が何羽か空へと逃げる。ごく平凡な休日の公園にはその音が目立つこともなく、たむろす人々は己の休日を満喫している。だから、気が付いたのは帝人の目の前にいる彼だけであった。ゆるりとあげられた顔は、いぶかしげに歪んでいて、それは帝人に本格的に様子がおかしいと悟らせるには十分だった。
「あの、臨也さん、大丈夫ですか?」
「……」
「臨也、さん?」
「君には見えるんだ」
「は?」
「君には俺の姿が見えるんだね」
 おかしい以上だった。そうとしか言えなかった。憔悴した、けれど真面目な顔をして言う彼にはその感想しか浮かばない。ぱちくりと数回まばたきをして、帝人は答えようとした。何かを。何を言ったらいいか分からなかったけれど、とにかく何かを言おうと思った。
「座りなよ、隣」
 言葉が空気に乗るより早く、臨也はそう促した。確かにその通りで黙したまま座る。金属の冷たさがジーンズ越しに伝わってくる感触にわずかに身を縮こませると、その態度を別の意味で受け取ったのか、憔悴以外の感情をはじめて浮かばせて臨也は苦く笑いながら言う。
「つまり、俺の姿が見えないんだ。誰にも。皆俺に気が付かない。家族や友人や知り合いや知らない人でさえも俺のことを見ないし、声を聞こうともしない。俺は世界から隔絶されていて、孤独だった。さっきまでは」
「……でも、僕には見えています。他の誰でもない貴方が。声も聞こえてます。貴方のその、冗談も」
「冗談? 確かに俺が君の立場なら同じことを言うだろう。だから君を責めようとは思わない。でもね、俺は言うよ。嘘は吐いてないって。これは、まぎれもなく本当のことだ」
「……」
「信じられないか、そりゃそうだ」軽快な足取りで臨也は立ち上がる。「百聞は一見に如かずってね」
 止める間もなかった。歩いているのに、走っているようなスピードで休日を楽しむ三人の親子連れの元へ臨也は向かう。そのままではぶつかること必死で、方向転換をしようともしない臨也に危ない、と叫びそうになるが寸前で声は出なかった。ありえない光景を見てしまったからだ。
 臨也は足を止めず、親子連れも彼をよけようとしなかった。それなのに二つの固まりはぶつかりあったことなど気が付かないように平然とした顔を続けている。何かが起こった。しかし何が起こったのかまるで分からない。呆然としたままの帝人の元へ、いたずらめいた笑みを浮かべて臨也が戻ってくる。
「どうだい? 俺の言ったこと分かっただろう?」
「臨也さん、一体、何を…」
「俺は何かをした側じゃないさ。おそらく、された側だよ」
「だって、こんなの・・・・・・」
「まだ信じられない? それなら、俺はナイフで彼らに切りかかればいいのかな? そうしたら君は信じてくれるんだろうか」
「・・・・・・すいません、混乱してます」
「だろうね。俺もだよ」
 ようやく笑みを引っ込めて臨也は深い息を吐く。そこに含まれたものを伺い知ることは出来なかったが、少なくとも帝人に会うまで絶望に近い心境に居たことだけは把握出来た。仮に自分が同じ立場だとしたら、三日も保たずに頭がおかしくなるだろうと思う。目の前に友人がいるのにどれだけ声を張り上げようとも言葉は届かず、触れようとも通り抜けてしまう。それは絶望としか言いようがない。己の足下が突然崩れていくような不安さに襲われた。想像でこれだ。現実になったら一体どうなってしまうのか――
「臨也さん、あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫・・・? そんな訳・・・いや、そうだな、大丈夫かもしれないね、今は」
「その、いつからこんな風に」
「おおよそ五日と十二時間くらいだね。いやあ、でも君と会えてよかった。じゃなきゃ、いい加減発狂するところだったよ」
「・・・・・・その間誰も?」
「ああ、誰もさ。チャットに入る権限すら奪われてたよ・・・気が付かなかった?」
「ええ、ここのところネットに繋ぐ時間が取れなくて」
 確かにチャットをすればもっと早く気づいていたかもしれない。自分はちっとも悪くなかったが、罪悪感になんとなく襲われ横目で臨也を伺えば、別に君が気にする必要はないよと返ってくる。
「それに、今会えたしね」
 そう言って臨也は立ち上がった。くたびれた印象は消えなかったが(それが、まばらに生えた無精ひげのせいであることに今気づく)表情は明るくなっている。確かに絶望の底に居た人間からすればわずかな光でも有り難いに決まっている。座ったままそんなことを考えると、行こうよとさも当然のように語る声が降ってきた。
「い、行くってどこにですか?」
作品名:幸福な夢を見る 作家名:ひら