幸福な夢を見る
「君の家じゃないの? ファミレスはあまりよろしくないし、カラオケもくつろげなさそうだし。って、もしかして気づいてない?」
「何に、ですか?」
やれやれと辺りを見回す仕草に帝人はようやく気づく。そうだ、今臨也は誰にも認識されない存在なのだ。帝人は臨也と話しているつもりでも、見えない人間からすれば何もない空間に話しかけているちょっとやばげな少年に見えることだろう。まだしばらくこの街で過ごすのだ。知り合いに見られて余計な噂を立てられたらたまったものではない。
「さ、どこに行こうか?」
「・・・・・・僕の家で」
賢明だねえと笑うその声に、帝人はようやく面倒なことに巻き込まれたと気づいたのだった。
・・・ ・・・
ともあれ、臨也自体はそれほど迷惑な存在ではなかった。居るだけで部屋は狭くなるし、皮肉なのかよく分からない発言を度々吐いてこちらを困惑させたりいらいらさせたが、帝人が一人になりたいときは察して部屋を出ていったし、細かいところで適度に手助けはしてくれた。
帝人が部屋を空けている時は臨也も外出しているようで、どうやら元に戻れる算段を探しているらしかった。だが、彼の口から芳しい結果が吐き出されることはなく、二人は無駄に日数を重ね同居生活を続けていった。ある程度の時間が経つ頃にはすっかり生活ペースにも慣れ、まるで随分前から同居しているような気にさえなってきた。その頃にはもう学校も始まり、帝人は度々家を空けるようになった。が、そうなると何故か臨也は家に閉じこもるようになり、帝人が帰宅するといつも彼を迎えてくれるようになる。帰宅して暗い部屋にただいまと呟く孤独はもうない。半ば奇妙な形で始まった同居ではあったが、いつのまにか帝人はそれを喜ぶようになっていた。自らが望んだ独り暮らし。気ままではあったが、言葉に出来ない孤独は何処かにあった。しかし今、気ままさと引き換えに孤独は消えた。決して良いことだけではないだろうが、それでも寂しくはない。今彼には決して消えぬ孤独があったから尚更だった。
――突然姿を消した親友。連絡を取る手段は一切なく、今生きているかどうかも分からない。勿論生きていて欲しいと願うが、その限りではない。不安と、孤独と。音もなく忍び寄るそれに押しつぶされなかったのは、多分臨也のお陰だった。
気が付けば帝人は無条件で臨也を信頼するようになっていた。もちろんそれは誰にも認識されなくなった折原臨也には、何を話しても外部に漏らされる危険性がないということもあったが、それ以前に彼と言う人間を信頼していたのだ。臨也はいつだって帝人の話をきちんと聞いてくれたし、適切なアドバイスも返してくれた。以前の帝人が知る限りのどこか含みを持った対応は影を潜めており、ああ彼はいい人なんだなと純粋に思うようになる。信頼しすぎだと、時に思う事もある。障害物も何もない決められた道を延々と歩き続けているような、あまりにも上手く事が進みすぎているようなところはあった。それほどまでに帝人から臨也へ、あるいは臨也から帝人へ向けられる感情は加速度をつけて、好意の方へ転がっていった。ほとんど見知らぬ者同士と言っていい二人の同居生活だ。トラブルが起きるのはさほど難しいことではない。だというのに、二人は何一つ揉めることなく、上手くいきすぎるほど上手くいった。帝人は秘かに怪しんではいた。何かが変だ、と。しかしそれを掘り下げることはついぞしたことがなかった。掘り下げてしまう事によって、この絶妙なバランスが崩れてしまうかもしれないと危惧したからだ。疑問を放置し思考することを止め、ひたすらに何かへ溺れ続けるのはよくないこと。考えることを止めた人間ほど不幸な存在はなく、帝人は自身も気付かないうちにそこへと向かっていた。そこ、が、どこかも分からぬまま。
・・・ ・・・
その日、雨は降っていた。五日ぶりに訪れた休日だったが、帝人も臨也も家から一歩も出ないでざあざあと降る雨の音を聞いていた。雨は強く長く続いている。ノアの箱舟さえ辛辣に破壊してしまいそうな水の集合体は、彼らを家から出すことを許しはしなかった。しかしそんな状況に置いて、ゆるい倦怠感はあったが退屈は決してしていなかった。暗いところで更に目を塞がれたような世界との絶対的な隔離が、家で休日を過ごすというあくまでも日常の延長でしかない現状から、遠い誰も知らぬ場所まで連れて来させられ突飛な非日常に引きずり込まれたような感覚に陥ったせいだったのかもしれない。それほどまでの雨だった。
臨也は徹底的に口を噤んでいた。どちらかと言えばおしゃれなこの男にしては非常に珍しいことだ。それに、ガラス越しに叩きつける雨をぼんやりと見つめる横顔には不思議なくらいの憂いで満ち満ちている。何を憂いているのか帝人には分からない。未だ不可視される自身の肉体についてだろうか。それともまた別の理由か。臨也は帝人に気を使い、使いすぎる程に気を使ったが、決して内心を明かしはしなかった。だから帝人には今の臨也が何を考えているのかまったく分からない。口惜しいと思った。
「……臨也さん」
「……」
「臨也さん」
ゆるりと振り返った臨也は、初めてそこに帝人がいたと気付いたのかわずかに驚いた顔をしてみせて、それからここに来て初めて冷たい視線を送った。その目には敵意さえ含まれている。視線だけで帝人を殺せるのならば殺してやりたいと言っている。そんな感情を向けられるようなことをした憶えは一切ない。不慮の雨で家に閉じ込められるまでは、臨也はいつも通り機嫌よさげに朝食をふるまってくれていたのだ。どこで怒り方面へのスイッチが入ったのかさっぱり疑問だ。
「あの、い、臨也さん」
「……」
「僕、何かしましたか…?」
臨也の場合、分からないのならば考えるよりも聞く方が早い。想像で作り上げても、てんで見当違いな折原臨也の内面を作り上げてしまうことにしかならないからだ。帝人の言葉を聞いた臨也は、少しだけ眉間の皺を緩めたがそれでも常時の機嫌が良さそうな状態からは程遠かった。しばしの沈黙。何を言っていいのか、いけないのか。地雷が一切分からない帝人は口を紡ぐしかない。託宣を待つ巫女のように、今この部屋での絶対的権力者の声を待つ。臨也は指で壁を叩いていた。ざあざあ。とんとん。ざあざあ。リズミカルな相の手のようなそれに、ぼんやり指先へ目線をやれば唐突に声が聞こえる。
「君は何もしていない、けれど何かをした」
「……ええと」
「君は何も悪くない、けれど最低の極悪人だ」
「……」
口を開いたのはいいが、答えになるような言葉は何一つ存在してはいなかった。それどころか霧に形を変えてまとわりついている帝人の混迷をますます深めるばかりだ。さすがに意味が通じないことに気が付いたのか、瞳は厳しいままわずかに口元を緩めて臨也は言う。
「要するに俺は釈迦の手のひらで踊らされていただけさ。自身を主人公として、すべてを操った気でいたというのにそれはただの幻想でしかなかった……君には分からないと思うけれど、それは俺のような人間にとって耐えがたい屈辱なんだよ」
「あの、臨也さん」