【銀魂】次郎長とお登勢さんの話
子供の頃、ときおり喧嘩に負ける日があると、次郎長に向けて「帰ろう」と手を伸ばすのはいつも綾乃だった。
度々負けるならともかくも、生来の悪童だった次郎長が大きな怪我をすることなどは滅多になかった。けれども日々を喧嘩ばかりで折り重ねるような中、まれに誰かに殴りつけられるようなことがあると、誰が知らせるものか、決まって綾乃が赤い鼻緒の草履で駆けてきて、次郎長の傍にしゃがみ込んで小言を流しながら、手を伸べ、そんな言葉をこぼすのだ。
「帰ろう、次郎長」
そういうときの綾乃の声は、弱かった。
普段のお転婆らしからぬ、しおらしく、かなしそうな声だった。彼女の紡ぐ面倒な小言に対して「うるせェや」と顔を顰め、不機嫌になってしまいたいのはこちらの方なのに、地べたに座った次郎長を真っ直ぐ見詰めて手を伸ばす綾乃の目は決まって涙で薄く濡れているものだから、次郎長はほとほと参ってしまう。
自分のことならどんな辛いことがあったって気丈でいるくせに、俺なんかのことで泣くな、と思うのだ。
「もう負けねェよ」
往来に座り込み、地面に擦って傷になった頬を柔らかな手ぬぐいで押さえられながら、そういう約束をしたのは幾つのときだっただろう。けれど綾乃は首を横に振って、違うよ、この馬鹿、と言った。
「そんなことを心配してるんじゃないんだよ。私は、あんたの家族も同然なんだから」
その言葉にどういう意味があったのか、次郎長がきちんと知るのは、それから何年も何年も、ずっと後のことになる。
数年が経ち、それまでちょうど並ぶようだった綾乃の背丈を次郎長が確かに追い越したころ、次郎長はかぶき町の真ん中で派手な喧嘩騒ぎを起こした。
その喧嘩については、大層な噂が流れたようだった。誰かが死んだだの、いいや次郎長の腕が落ちただの、後から聞けばなんだそのデマはと渋面を作りたくなるような大袈裟なものばかりだったが、次郎長が自分を取り囲んだやくざ者を相手取っている間に、噂は風のように駆け抜け、かぶき町の人波を縫って、そこから何丁も離れた団子屋に勤めていた綾乃の耳にまで入ったのだそうだ。
本当は人数もさほど多くなく、怪我人だってそう大層な者が出たわけでもないのだが、ただひとつ、相手方が刃物を出したことが、見ていた人間には恐ろしかったんだろう。だから、禍々しさの足された話が巡ったに違いない。
綾乃は、次郎長がちょうどやくざ者たちを片付けた頃に駆け付けて来た。まだ真新しい団子屋の前掛けをしたままだった。肩で息をし、化粧をしない頬にも、くちびるにも殆ど色がなかった。それが、次郎長の顔を一目見て、また次郎長が相手取った誰もが死んでいないことを見ると、ほうっと深い息を吐き出した。
それから、次郎長がその名前を呼ぶ前に、薬箱を提げたのと反対の手でこの馬鹿と次郎長の頬を思い切り殴り付けた。
脳に響き、くらくらとした。正直に言って、喧嘩の相手に被せられた太刀傷の痛みの方が、よっぽどましだと思えたほどだ。
何をしやがる。
そう苦い顔で吼えると、綾乃はきっと次郎長を睨み付けたあと、ぱたぱたと血が出ている腕を取って、提げていた薬箱の中から手にした包帯を巻き始めた。
それから、小言を口にした。ほんの幼い頃となにも変わらない、そうしてこれからも変わらないと思えるような、次郎長にとっては聞き飽きた小言を熱心に口にしたのだった。ひとつ、ふたつ、みっつ。それは、とうとうと続く。
本当のところ、この頃、綾乃が次郎長に向けてどんな言葉を伝えようとしていたか、次郎長はもう思い出せない。
そのときは、まさかこの幼馴染と会話を交わすことさえなくなる日々が来るとは思いもしなかった。言葉のひとつがどんなに大事なものか、尊いものなのか、ちっとも知りはしなかった。いつものことだと聞き流し、肩を竦めて、ただ、自分の腕に包帯を巻く白い指を、不機嫌な顔でじっと見ていた。
「負けてねェよ」
ぽつりと言うと、そのとき、綾乃はほんとうに仕方ないねと言った。あんたは馬鹿だねえ次郎長とも言った。余計なお世話だと思った。手馴れた仕草で包帯の端をとめながら少しだけ色が戻ったように見える頬や口元をゆるめて、綾乃はようやく笑った。
「あんたは、勝手に約束だなんて思ってるようだけれどね。私はあんたが勝ったって、負けたって、そんなことはどうでもいいのさ」
「……その癖に、いつまでも小言ばかり言いやがるじゃねーか」
「そりゃそうさ。あんたとは、家族も同然なんだから。ほら」
「いってェ!」
ぱん、と、白い手が威勢良く次郎長の背を叩いた。まったくもって、それが先ほどまで手当てをしていた人間にすることかというような強さだ。そうして立ち上がると、綾乃は、幼い頃と変わらない様子でこう口にした。
「帰ろう、次郎長」と、もう握り返して歩いたりも出来ないのが分かっているくせに、手を伸べて微笑んだのだった。
綾乃の勤める団子屋は連日盛況のようで、昼間は客足が絶えなかったが、流石に日の落ちる時間にもなれば、江戸の人間の急ぎ足は店の前をばらばらと通り過ぎていく。赤い縁台に腰掛けた次郎長が、どいつもこいつもせかせかと情緒がないねえと団子の串を咥えて呟くと、店先ののぼりを片付けていた綾乃がからかうように言った。
「こんな中途半端な時間にぼんやり暇そうにしてるのは、あんたみたいなひょうろく玉くらいだよ」
「うるせえな。俺みたいなひょうろく玉と、団子屋ぐらいの間違いだろ」
「今夜はあの人、夜番だから、あんたは一日退屈だね」
「なんだ。俺の遊ぶ相手が辰五郎しか居ねェみてーな言い様じゃねーか。冗談じゃねェや」
もうすぐ綾乃の夫になる男は、同心で、十手を片手に昼や夜やと忙しない。自分は任侠者であるから本来なら共に行動すること自体がおかしいのだろうにと思い、次郎長は咥えた串の先をがじりと噛みながら苦笑いをする。すると、綾乃は、やわらかなまなざしをこちらへ向けた。
「……あの人もあんたも、似たようなこと言うんだから」
そうして笑ったのだった。
慈しむような、尊ぶような、心のうちで大事に大事にあたためたような、ひどくやさしい微笑みだった。次郎長は目を細め、赤い黄金色に輝きを増す夕焼けの眩しいことに目を細め、それから、そうだったな、と言った。
「……お前に、家族が出来るんだな」
なんだいその言い方、と、綾乃は返す。
「それじゃあまるで私が、今の今まで家族のひとりもなくて、天涯孤独だったみたいじゃあないか」
そうして次郎長を見詰め、しっかりと見詰め、「そんなことはないだろう」とやはり微笑む。
私とあんたは家族も同然なんだからと言ったかつてのときと同じように、「そうだろう」と確かめる。そうして、顔を伏せた。
「……もう、店も仕舞いだ。どうせ方向は同じなんだし、家まで送ってもらおうか」
背中を向けるので、やれやれ、と思った。思いもしたし、そう口にも出した。組んでいた脚に頬杖をついて、次郎長は独り言ぶる。
「送れったってなァ。どんな鋭ェ牙持った猛獣だろうと、見るからにじゃじゃ馬みてーな女に蹴られるの覚悟で噛み付こうたァ思わねーだろうに」
度々負けるならともかくも、生来の悪童だった次郎長が大きな怪我をすることなどは滅多になかった。けれども日々を喧嘩ばかりで折り重ねるような中、まれに誰かに殴りつけられるようなことがあると、誰が知らせるものか、決まって綾乃が赤い鼻緒の草履で駆けてきて、次郎長の傍にしゃがみ込んで小言を流しながら、手を伸べ、そんな言葉をこぼすのだ。
「帰ろう、次郎長」
そういうときの綾乃の声は、弱かった。
普段のお転婆らしからぬ、しおらしく、かなしそうな声だった。彼女の紡ぐ面倒な小言に対して「うるせェや」と顔を顰め、不機嫌になってしまいたいのはこちらの方なのに、地べたに座った次郎長を真っ直ぐ見詰めて手を伸ばす綾乃の目は決まって涙で薄く濡れているものだから、次郎長はほとほと参ってしまう。
自分のことならどんな辛いことがあったって気丈でいるくせに、俺なんかのことで泣くな、と思うのだ。
「もう負けねェよ」
往来に座り込み、地面に擦って傷になった頬を柔らかな手ぬぐいで押さえられながら、そういう約束をしたのは幾つのときだっただろう。けれど綾乃は首を横に振って、違うよ、この馬鹿、と言った。
「そんなことを心配してるんじゃないんだよ。私は、あんたの家族も同然なんだから」
その言葉にどういう意味があったのか、次郎長がきちんと知るのは、それから何年も何年も、ずっと後のことになる。
数年が経ち、それまでちょうど並ぶようだった綾乃の背丈を次郎長が確かに追い越したころ、次郎長はかぶき町の真ん中で派手な喧嘩騒ぎを起こした。
その喧嘩については、大層な噂が流れたようだった。誰かが死んだだの、いいや次郎長の腕が落ちただの、後から聞けばなんだそのデマはと渋面を作りたくなるような大袈裟なものばかりだったが、次郎長が自分を取り囲んだやくざ者を相手取っている間に、噂は風のように駆け抜け、かぶき町の人波を縫って、そこから何丁も離れた団子屋に勤めていた綾乃の耳にまで入ったのだそうだ。
本当は人数もさほど多くなく、怪我人だってそう大層な者が出たわけでもないのだが、ただひとつ、相手方が刃物を出したことが、見ていた人間には恐ろしかったんだろう。だから、禍々しさの足された話が巡ったに違いない。
綾乃は、次郎長がちょうどやくざ者たちを片付けた頃に駆け付けて来た。まだ真新しい団子屋の前掛けをしたままだった。肩で息をし、化粧をしない頬にも、くちびるにも殆ど色がなかった。それが、次郎長の顔を一目見て、また次郎長が相手取った誰もが死んでいないことを見ると、ほうっと深い息を吐き出した。
それから、次郎長がその名前を呼ぶ前に、薬箱を提げたのと反対の手でこの馬鹿と次郎長の頬を思い切り殴り付けた。
脳に響き、くらくらとした。正直に言って、喧嘩の相手に被せられた太刀傷の痛みの方が、よっぽどましだと思えたほどだ。
何をしやがる。
そう苦い顔で吼えると、綾乃はきっと次郎長を睨み付けたあと、ぱたぱたと血が出ている腕を取って、提げていた薬箱の中から手にした包帯を巻き始めた。
それから、小言を口にした。ほんの幼い頃となにも変わらない、そうしてこれからも変わらないと思えるような、次郎長にとっては聞き飽きた小言を熱心に口にしたのだった。ひとつ、ふたつ、みっつ。それは、とうとうと続く。
本当のところ、この頃、綾乃が次郎長に向けてどんな言葉を伝えようとしていたか、次郎長はもう思い出せない。
そのときは、まさかこの幼馴染と会話を交わすことさえなくなる日々が来るとは思いもしなかった。言葉のひとつがどんなに大事なものか、尊いものなのか、ちっとも知りはしなかった。いつものことだと聞き流し、肩を竦めて、ただ、自分の腕に包帯を巻く白い指を、不機嫌な顔でじっと見ていた。
「負けてねェよ」
ぽつりと言うと、そのとき、綾乃はほんとうに仕方ないねと言った。あんたは馬鹿だねえ次郎長とも言った。余計なお世話だと思った。手馴れた仕草で包帯の端をとめながら少しだけ色が戻ったように見える頬や口元をゆるめて、綾乃はようやく笑った。
「あんたは、勝手に約束だなんて思ってるようだけれどね。私はあんたが勝ったって、負けたって、そんなことはどうでもいいのさ」
「……その癖に、いつまでも小言ばかり言いやがるじゃねーか」
「そりゃそうさ。あんたとは、家族も同然なんだから。ほら」
「いってェ!」
ぱん、と、白い手が威勢良く次郎長の背を叩いた。まったくもって、それが先ほどまで手当てをしていた人間にすることかというような強さだ。そうして立ち上がると、綾乃は、幼い頃と変わらない様子でこう口にした。
「帰ろう、次郎長」と、もう握り返して歩いたりも出来ないのが分かっているくせに、手を伸べて微笑んだのだった。
綾乃の勤める団子屋は連日盛況のようで、昼間は客足が絶えなかったが、流石に日の落ちる時間にもなれば、江戸の人間の急ぎ足は店の前をばらばらと通り過ぎていく。赤い縁台に腰掛けた次郎長が、どいつもこいつもせかせかと情緒がないねえと団子の串を咥えて呟くと、店先ののぼりを片付けていた綾乃がからかうように言った。
「こんな中途半端な時間にぼんやり暇そうにしてるのは、あんたみたいなひょうろく玉くらいだよ」
「うるせえな。俺みたいなひょうろく玉と、団子屋ぐらいの間違いだろ」
「今夜はあの人、夜番だから、あんたは一日退屈だね」
「なんだ。俺の遊ぶ相手が辰五郎しか居ねェみてーな言い様じゃねーか。冗談じゃねェや」
もうすぐ綾乃の夫になる男は、同心で、十手を片手に昼や夜やと忙しない。自分は任侠者であるから本来なら共に行動すること自体がおかしいのだろうにと思い、次郎長は咥えた串の先をがじりと噛みながら苦笑いをする。すると、綾乃は、やわらかなまなざしをこちらへ向けた。
「……あの人もあんたも、似たようなこと言うんだから」
そうして笑ったのだった。
慈しむような、尊ぶような、心のうちで大事に大事にあたためたような、ひどくやさしい微笑みだった。次郎長は目を細め、赤い黄金色に輝きを増す夕焼けの眩しいことに目を細め、それから、そうだったな、と言った。
「……お前に、家族が出来るんだな」
なんだいその言い方、と、綾乃は返す。
「それじゃあまるで私が、今の今まで家族のひとりもなくて、天涯孤独だったみたいじゃあないか」
そうして次郎長を見詰め、しっかりと見詰め、「そんなことはないだろう」とやはり微笑む。
私とあんたは家族も同然なんだからと言ったかつてのときと同じように、「そうだろう」と確かめる。そうして、顔を伏せた。
「……もう、店も仕舞いだ。どうせ方向は同じなんだし、家まで送ってもらおうか」
背中を向けるので、やれやれ、と思った。思いもしたし、そう口にも出した。組んでいた脚に頬杖をついて、次郎長は独り言ぶる。
「送れったってなァ。どんな鋭ェ牙持った猛獣だろうと、見るからにじゃじゃ馬みてーな女に蹴られるの覚悟で噛み付こうたァ思わねーだろうに」
作品名:【銀魂】次郎長とお登勢さんの話 作家名:てまり@pixiv