階段で◆乾海
「ううーっ、さびっ、さびっ。早く教室行こうぜ」
靴箱で上履きに履き替えつつ友人が言う。その声が震えていた。
教室に行けば暖かい暖房が待ち構えているだろう。
皆より遅く靴箱を閉めた乾は、すでに階段を昇りはじめていた皆を追いかけた。
乾たち三年の教室は三階だった。
窓からの西日を浴びた階段にほこりが舞っているのが目にみえる。
箒を持った下級生とすれ違った。この階段も掃除していたのだろう。清掃時間とはいえ、人通りが激しい階段とはここも嫌な場所だなと乾は不憫に思う。
「結局、好きな子教えてくれなかっんだよな、乾」
「え?」
前を進む友人らが振り返って言うのに乾は目を点にする。
「誰なんだよ。でも乾が恋ってなんか考えらんねぇなぁ」
笑い出す友達に眉間にしわが寄る。
「高原…変なことみんなに言うなよ」
「だって教えてくんねぇんだもん」
「教えねぇよ、馬鹿」
舌を出す高原に、こぶしで額を殴る。
それが他の皆には受けたらしく、どどっと笑いが起こった。比較的背の高い人間が集まった班だったので、下級生など周りの者たちの目を引く。
ちらちらと見つめる周りに乾は目をやった。
彼の姿はない。偶然にもばったり会うのを期待してがっかりした。
上の階から降りてきてそこの曲がった角でばったり、となんてうまくいかないだろうか。そう考えて皆につられて笑いながら顔を上げ、視線が止まる。
彼だ。会いたかった彼だ。
角を曲がったところで、本当に彼とばったり会った。
彼もモップを両手に持ったまま乾の顔を見つめ驚いて立ち止まっていた。
乾は自分が笑顔のまま固まっていたことに気がつくと、すぐに自然をつくろう。
「やあ、海堂」
声をかけると、海堂も我に返ったようにぺこりと頭を下げた。
「…乾先輩…久しぶりです……」
心が熱くなってくる。
ただ一言、名前を呼ばれただけで。
「なになに、テニス部の後輩?」
友人が間に入ってくるのをひどく疎ましく思う。
「ああ、今では部長だよ」
「へぇ」
「ここ掃除だったの?」
「ウス……」
海堂は乾の周りの友人たちが気になったのか、うつむいたまま乾を見ようとしなかった。
乾も友人たちの足まで止めていることに気がつき、とても口惜しいが長話をするつもりはなかった。
「そう。大変だったね」
そういって階段を一段昇ると、友人たちの足も動き出した。
「じゃあ、海堂」
またな、の言葉を続けることができない。
また会いたくて、あいたくてたまらないのに。
「あ…あの、乾先輩」
控えめな声に驚いて横の海堂を見つめる。
「あの……また部に顔出してください」
そんな予想もしないことをいう海堂に、乾は顔が熱くなるのを感じた。
「ああ、またな」
そんな短い言葉しか出てこない自分を恥じながら、乾は海堂の頭をぽんと撫ですれ足を進める。
海堂の細い黒髪ばかりを見ていた。彼はうつむいて顔をなかなか見せてくれなかったから。その中の旋毛を見つけて、触れたいと想う手をぐっと我慢する。今までチャンスを見計らって頭を撫でたことが何度かある。
子ども扱いするなって、照れているのか怒られたけど。
そんな些細なことが楽しかった。
そんな些細なことも、もうできない。
そう思ったら急に胸が痛くなって、顔をしかめた。
『また部に顔出してください』
緊張した面持ちの海堂を思い出して、またぞくりと背中を電流が走る。
彼がどんな意味でその言葉を言ったのか、都合のいいように考えて、馬鹿なことだと首を振った。テニスしか頭にない彼のことだ。答えは簡単に想像できる。
どんな理由でも、彼に会える理由ならなんでもいいのだ。
明日、合否の結果を伝えに行こうと決めた。
一緒に合格を喜んでくれる彼の姿を思い浮かべて乾は笑った。
「目つき悪いやつだったなぁ」
隣でそんな声が聞こえたが、気にならなかった。
通り過ぎた海堂を振り返りたくてできなくて、背中の神経がずっと彼を追っていた。
―――ああそうだ。掃除場所は一週間続くのだ。
彼にふれた冷たかった手が、熱を持っていた。