壊れた時計◆乾海
ガチャリと音かして部室の扉があいた。
入ってくるのは見なくてもわかる。海堂だ。
「おつかれ」
イスに座ったまま振り返った乾に気付くと、海堂は少し驚いたそぶりをした。
「まだいたんすか」
「ああ、データ整理してたんだ。もうこんな時間か」
壁にかけられた時計を見ると、短針は一時過ぎをさしている。
「一時? あの時計、動いてないのかな」
「あ…昨日から止まったままッスよ」
海堂がそういったので、乾は電池がなくなったのだろうかと思いつつ携帯電話を探り時間を確認する。六時になろうとしていた。
乾が窓の外を眺めると、もう日が暮れたようで紫色の空が見える。元から薄暗かったので蛍光灯をつけていたせいか、あまりにノートに真剣になっていたせいか、時間のたつのを忘れてしまっていたようだ。
海堂はロッカーの前で汗を拭き着替えを始めていた。位置的には、ちょうど乾の真後ろになる。
残念な気持ちも少しはあるが、乾はほっと安堵した。気にしないようにしても、どうしてもちらりと目が寄ってしまうだろう。狭い部室に二人でいることは今まで何度もあったが、いつも胸がざわめき始める。
ノートを見つめ海堂を頭からのぞこうと集中しようとするが、背後の布ずれの音が気になった。
頭の中で、海堂がシャツを着ている様子がまるで映画を見ているかのように映し出された。
もわもわと浮かび上がった邪念に、乾は慌てて頭をふった。
ノートの文字を頭に叩き込もうと目で追うが「海堂」の文字に目がとまってしまう。
開いたノートは海堂のデータと、頼まれて作った自主練メニューだった。
ふと、乾は壊れた時計を見上げて、部活が終わった時間と海堂が自主トレを終えて戻ってきた時間を思い出して計算する。海堂が自分の渡したメニューを忠実に守ってくれていると確信すると、自然と笑みがこぼれた。
「渡したメニュー。ちゃんと守ってくれてるんだな。嬉しいよ」
振り返らずいうと、海堂が背後でこちらを振り返った気配がする。
「……ウス。ちょっと足りねぇと思うけど、先輩オーバーワークってうるせぇし…」
「はは。でも海堂のことだからちょっとぐらい、って加算してるかと思ったよ」
「………」
「一応、俺のデータ信用してくれてるんだ?」
乾はノートを閉じて振り返った。
ジャージから制服に着替えた海堂は背を向けていた。
「……データじゃなくて…」
乾が振り返ったのに気づいて、海堂もシャツのボタンを閉めながらこちらを向いた。
「あんたのこと、信頼してますよ、一応」
「え……」
吃驚した。
海堂を見つめる目が見開く。
普段、感情を表出さない乾が、明らかに驚いているのをみて恥ずかしくなったのか、海堂の耳が赤くなっていた。
乾の胸にじわじわと湧き水のように、暖かい気持ちがわいてくる。ドキドキと鳴っていた胸の音は、駆け足で弾んで乾の心を打った。
「…一応、先輩だし」
赤い顔を隠して背を向けていう海堂に、口元が緩んだ。
「…帰らないんすか」
てれからか、乾のほうを見ようとしない海堂はうつむいたままそう言った。乾の返事を聞かぬままバックを肩にかけて出入り口に向かう。
「海堂が好きなんだ、俺」
乾は言った。
緊張のせいで、かすかに声が震えた。そのことを海堂に気づかれまいと必死で隠した。
見つめあった海堂の視線にも、一瞬にして緊張の色が走る。
とうとう言ってしまったと、乾はすでに後悔していた。この恋を伝えて成就する確立はかなり低いし、海堂とはもう今まで通りにも接することができなくなるだろうと確信していたから。
ただ部室で二人きりでたわいもない話をして、あんな可愛いことを言われて、気づいたらあふれた気持ちを言葉にしていた。
海堂とも自分も同じ性だ。気持ち悪く思われ、今までもそんな気持ちで俺を見ていたのかと、罵られ嫌われることを想像して手がぶるぶると震えてきて拳をつくる。
「……俺も先輩のこと嫌いじゃないッス。データ取られるのはムカつくけど、いい先輩だと感謝してます」
低い声で海堂が言うのに目が点になる。
「え、あ、いや」
「じゃ、お疲れッシタ」
「いや、そうじゃなくて海堂」
やっと出た言葉は、バタンとと後ろ手で閉められた扉に消えた。
乾は一人、呆然と閉められた扉を見つめていた。
まるでその壁にある壊れた時計のように。
遠くでカラスが鳴くのが聞こえていた。
嗚呼、突発的とはいえ真剣な告白を。告白を。
流されたのか、天然なのか。
知るのは海堂のみである。