この島には行く場所がないこともない
「今、八月ですけど食べても大丈夫ですかね」
「……牡蠣はRのつく月は駄目らしいけど。さっき日本が食べたときは平気だったし、大丈夫じゃないかな」
「うちの海で勝手に牡蠣や魚取って食べると漁師に捕まってリンチされるらしいですよ。漁業権とかそんなのの絡みで」
「厳しいんだな」
「土地が狭いから仕方ないですね。それに第一次産業はどこも生き抜くのに必死なのです」
民宿近くに広がる海の岩場で、私とギリシャさんは牡蠣をバールで剥がしては食べている。
何もすることがないので性欲の次は食欲に逃げてみたのだ。バールは民宿の主人が貸してくれた。朝食に生牡蠣が出たのでもっと食べたい、と頼むと自分で取って勝手に食えと言われた。セルフサービスにも程がある。
「所で生きてる牡蠣の身にレモン絞ると、きゅっと縮むのって興奮しませんか」
「する。でもイケヅクリは怖かった」
二人で日本の料理旅館に行ったときのことだ。
舟盛りの上でびくびくと震える巨大な活け作りの鯛を見たギリシャさんは、すかさず仲居の前で死にかけの鯛にトドメをさして呆れられた。いくら魚でも苦しみを長引かせるのは可哀想だ、と彼は私たちの前で強弁したが鯛は私より食べた。
これだから侘び寂びを理解しない野蛮なガイジンは、と私がイヤミを言うとわさびを指さしてちゃんと食べてるとギリシャさんは怒った。ワビサビはともかく吉本新喜劇なら理解してそうだ。
「牡蠣は」
私は一拍おいて深呼吸する。
「こちらの国だと精力剤になるそうですねギリシャさーん? 知ってるんですよ? 私、飛行機と船で地球の歩き方と旅行人とロンリープラネット隅々まで読みましたから!」
う、と喉に牡蠣を詰まらせてギリシャさんは咳き込み始めた。
「い、苛めだ」
「苛めてません。この国に初めて来たときの夕食が貴方お手製の牡蠣づくしだったことなんかなんとも思ってませんよ。美味しかったし」
げほげほげほ、とギリシャさんはさらに咳き込んだ。何をいまさら照れているんだ。彼の照れるポイントが未だによく解らないが、これは当たり方面だったらしい。覚えておかなくては。
おお、ウニ発見。
岩の隙間に隠れていたとげとげの塊を私は手ですくい上げた。日本と同じようなムラサキウニだ。食べられるかもしれない、と私はすかさずバールで叩き割る。どろどろした内臓や消化済みの海草を洗い流すと、黄色い卵巣が放射状にウニの内壁に張り付いている。 当たりだ。
ほんの少し躊躇したあと、私はそれを口にした。期待していたほどの甘さはなく少しがっかりする。この辺りの海には海草が生えてないからだろうか。物足りない味だ。
「……それ食べられるの?」
私は雲丹の殻の内側にちょろっと張り付いた黄色い卵巣を指ですくい、それをギリシャさんの舌の上に載せた。ちゅ、と音をたてて指を吸われる。指の腹を下から舐められ、上目遣いに表情を伺われた。
ちゅ、ちゅと指先を繰り返し吸われて、私は指を彼の口内に深く沈める。舌が絡まり、締め付けられた。
「……まだ足りないですか」
私の問いには答えず、ギリシャさんはまた指を吸い始めた。むずがゆいものが私の下腹を這い上がる。
外なのになあ、とか昼間なのになあ、とか色々思ったが今更だ。
じゃあ部屋に戻りましょうか、と言いかけた時だ。
私の頭上から「ナルトが牡蠣食べてるぞ!」とクソガキおっとギリシャさんちのお子様たちの甲高い声が降ってきて、私たちは慌てて離れる。
私たちが背にする岩場の頂上付近に、同じようにバールを持った子供達が何人かたむろしていた。
ここの子供たちはよく働く。きっとお母さんのお手伝いだろう。
危ないぞ、とギリシャさんは声をかけ私は畜生が、と牡蠣の殻を海に投げこんだ。
私がまだ食べますか、とウニの殻を差し出すとギリシャさんは受け取らなかった。
「……ちょっと俺には難しい味かな」
こっちの人は、あまり生でウニは食べないようだ。確かにこれは今一つかもしれない。季節から言えば旬のはずだが。
「今度日本行ったらいい島でウニ食べましょうね、礼文島っていうんですけど。そこウニが昆布っていう美味しい海藻を食べてるんでものすごくおいしいいいいんですよ。……ああ醤油が欲しい。オリーブオイル飽きた」
私は島に点在する白い家々を見ながら呟く。
「ヒヤヤッコノヤマ? おいしそう?」
「やだな。まだ覚えてるんですか」
私が最初にこの国に来たときの感想を彼はいちいち覚えている。うっかりウソはつけない。
「世界中の美味しい物を食べたがるのに、日本食が本当に好きなんだな」
「世界中の美味しい物ですか。うん。そうですね」
と私はギリシャさんを見ながら違う意味を含めて言う。残念ながらこっち方面の美味は私はほぼ未探索である。満腹すぎる。ギリシャさんはどうだか知らないが!
「……今日、帰るんだっけ」
「来るのに二日、かかりますからね。あーどこでもドア欲しいなー」
何それ、と聞かれたので小学生の女の子のお風呂を覗くのに使う道具ですよ、と教えた。すると女は16才からだと思う、とつまんない主張を真顔でされる。やかましいわアグネス。
さっぱり実りのないどうでもいい会話をその後も続けた。子供達は牡蠣を山ほどバケツに盛り上げて持って帰り、私たちはそれを見送って手を振る。
牡蠣にも飽きた。さて次は何に飽きようか?
民宿のベッドで胎児のように丸まって眠るギリシャさんを見ながら私は冷蔵庫のビールを呷った。冷蔵庫は調子が悪くビールの冷えは悪い。
島全体が、彼と一緒に眠っていた。先ほどまでうるさかった子供たちも家に戻ったのか、元気な声も消えた。長い午睡の時間を私は目を覚まして過ごす。
寝付けやしない。
今日の夜半には船でこの島を出ることになるだろう。そしてまた、次に会う日を待ち続けることになる。
私がどんな思いでこの島まできたか、解ってるんだろうか。
何ヶ月も連絡を取ってこない事もあれば、いきなり会いたいとアポも取らずに来る男。つきあい始めて以来、私は彼に振り回されっぱなしだ。
電話をしても留守(これは携帯電話を持たせたせいで大幅に改善した)。
プレゼントを送っても届かない(これはギリシャさん本人のせいではないがギリシャさん本人のせいでもある)。
私は誰が相手であれそれなりの待遇を受けるべき立場の者だ。
その私相手にこんな態度を取って良いとでも思っているのか?と毎度思う。そして実りのない連絡をして待っている。
正直しんどい。スナフキンの帰りをじっと春まで待つムーミンみたいな気分だ。
ムーミンは春まで家で寝てればスナフキンに会えるが私は冬眠できない。カバの妖精以下の待遇とは、どうしてくれるのだ。畜生。
長い長い人生の冬を耐えて、やっと手に入れた相手だ。…なのに。時々無性に腹が立ってたまらなくなる。
何の後ろ盾もお互いを縛る契約もない関係。手を伸ばしあうことをやめたら、次の瞬間には消えてしまうような脆い仲だというのに。心許なすぎる。
眠る彼の髪を一房、指に絡める。
眠っている彼を見るのは好きだ。
作品名:この島には行く場所がないこともない 作家名:火多塔子