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この島には行く場所がないこともない

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 恥じらいもなくぽんぽん裸になるくせに、あんまりじろじろ見ると照れてしまう人なのだ。たまにはじっくり隅々まで鑑賞したい。
 丸まるように被っていたシーツを剥いて、ほんの数刻前まで自分と重なっていた美しい体を眺める。このまま石膏でがちがちに固めてやれば大人しく自分の足元に侍るだろうか、彼は。
 
 サムソンの髪を切り、目を潰し奴隷に貶めたデリラは牢に繋がれ粉挽く彼をどう思っていたのだろうか。 
 怪力無双の英雄を籠絡した、と得意げだったのか。あるいはーーただの女として、サムソンをその手に隷属させたことを喜んでいたのか。
 我ながら物騒なことばかり考えるものだ。これが噂のヤンデレというやつだろうか。自分がそうなるとは思わなかった。怖い。楽しいばかりが恋ではないのだ。

「……日本」
 起きていたんですか、と声をかけるとギリシャさんはうっすらと目を開いてこちらを伺う。まだ眠いのか、長い睫毛に縁取られた青い目は半開きだ。さっきその目まで舐めてやったのを思い出す。
 先刻までの鬱々とした気分は吹き飛び、自然と顔が綻ぶのがわかる。私は色恋のこととなるとかなり扱いやすいタイプだろう。
 自覚はしている。

「後で、ちょっと見せたい物があるから外につき合って」
「…はい」
 何だろう。観光できるような場所は全くない島だと言ってたのに。
 素裸のまま起きあがってシャワーを浴びに行ったギリシャさんを背後に、私は自分のささやかな荷物をスーツケースに詰め込み始める。 
 これで私の今年の夏祭りは終わり、だ。次に会うのはいつだろう。 来年はちゃんと呼んでくれるのだろうか。その次は。
 ……考えるのはやめよう、と思った。

 身支度を整えたギリシャさんは私を港の桟橋に連れ出す。辺りは陽が暮れかかっていい頃合いだ。サントリーニとまではいかないが、ここの夕陽もなかなかに素晴らしい。
 半熟卵の黄身のようなとろんとした陽が落ちる水平線を桟橋から眺めていると、ギリシャさんは小さなボートをどこかから調達してきた。彼が相手なら誰もいやとは言えないとは思うが。
「そろそろ来る頃だから、行って待っていよう」
 いつもの事だが、話が見えない。だが一緒にボートに乗れと言われて大人しく乗り込む。悪いようにはならないだろう、多分。

「駆け落ちのお誘いですか?」
 なるべく、冗談に聞こえるようにして言った。
「……それも悪くないけど、面白い物がいるから見せたい」
 ゆっくりとオールを漕いで行き着いた先は島の南端にある崖に開いた洞窟だった。
 洞窟の入り口は海の水が流れ込む入り江になっていた。そこを抜けるとほんの10人も入ればいっぱいになってしまいそうな狭い岩屋がある。
 ボートを岸に隆起した鍾乳石に結わえ付けると、ギリシャさんは私に手を貸して一緒に上がるように言った。
 
「……ここで待って見るのが一番安全」
「何を?」
「何しろ図体がでかいから。俺たちに気がついても、そのまま尾の揺れでボートが沈むかもしれないし」
 そのとき、外の海で突然巨大な灰色の岩のような物がざばりと音を立てて浮かび上がり、私たちの前にその全容を晒した。
「あれは──?」

 魚なのか、そうでないのか瞬時に判別できなかった。
 本来なら鰓がある部分に太い二本の腕、人一人ほどの長さのある牙が植わる恐ろしい顎。図体の割に小さな目には瞼がある。異様な容姿をもつ「あれ」は首から下は一応魚類のように見えた。黄色く濁った瞳孔が私たちを一度睨む。
 久しぶり、とギリシャさんが声をかけると「あれ」は目を細めた。口を大きく開けたかと思うと、海水を大量に飲み込み、ややあって盛大に吹き出す。シンガポールのマーライオンをちょっと思い出したが、あんな風に愛嬌溢れる容姿ではない。
 海水を飲み込んでは吹き出すパフォーマンスを何回か続けると、やがて「あれ」は身を翻して去っていった。

「……なんですか、あれ」
「鯨だ」
「前足と牙がありましたが」
「しかし鯨だ。そう言われてるし」
 特に冗談を言っているようにも見えない。鯨か。そうか。しかしあれはシーなんとかが守ってあげるにはちょっとかわいくなさすぎるし我々の手にも余る。
「うーん……あれはベーコンやおでんの具にしたくないですね。竜田揚げならいけるかも」
「ベーコン? オデンノグ?」
「すいません。こっちの話です。……笑ってましたね。あれ。」
「解った?」
「はい。目だけ人間みたいでした」
「夏の間、必ずこの島にやってくるんだ」
「……あれを見せたかったんですか。ひょっとして」
 ギリシャさんはちらっとこちらを伺うとそんなところかな、と照れ笑いを浮かべた。
「なるべく先入観なしで見てもらいたかったから。それに撮影すると、気がついて襲ってくる」
「物騒な方ですね。お友達なんですか」
「どうだろう? ……友達じゃないな。なんとなく住み着いてるだけのような感じだ」
「あはは。でもああいう方にお会いできてよかったです。大戦前はもっといたんでしょうけどね」
「今は誰もかれも隠れて暮らしているって聞いた。寂しい話だな」
 ああ、私たちもそうできたらどんなにいいか。もう振り回されて暮らすのは御免だ。

 停めていたボートに乗るように促され、私たちは港に戻る。だが、不意に船の下が暗く陰ったかと思うと凪いでいた海が大きく揺らいだ。風もないのに何事だ、とボートから身を乗り出すと、私たちの下に巨大な魚影が浮かび上がろうとしていた。
「下に……いますよね。もしかしなくても。今まで危害を加えられたことはありますか」
「ないよ。でも、あくまで俺に対しては、だけど」
 ならば彼(ないし彼女)のレシピを考えた私相手ではどうだろうか?
 魚影はどんどん上昇してきている。
 ボートは笹舟のように揺れ、一瞬大きな波飛沫が上がった。ギリシャさんの手が私を抱き留める。海中に投げ出される衝撃を私は待った。
 溺れたところで簡単に死にはしないが、救助されるまでが問題だ。海底でフジツボと牡蠣まみれになるのは嫌すぎる。
 しかし案に相違して、私たちは海の水を盛大に被っただけで、溺れ死ぬようなことはなかった。
 何も手荷物がなくてよかった。
。かろうじてボートは沈まなかったが、しばらくお互いの情けない姿を無言で見つめ合ってしまう。鯨は何事もなかったように波間に消え、濡れ鼠の私たちだけが取り残された。
「こんなの初めてだな。あからさまに何かしてきたのは」
「私がよっぽど気にくわなかったんでしょうか」
「……そうでもないと思う」
 ギリシャさんはボートの内側に転がった白い珠を拾い上げた。真球形の柔らかい光。大粒の真珠だ。
 素人目にもとてつもなく良い真珠だと解る。
 見とれる私の手にギリシャさんはその真珠を落とした。
「多分、日本にくれたんだろう。……指輪、はさすがになんだからタイピンにでもしたら?」
「いーえ。家宝にします」
 鯨(?)がくれた真珠だ。穴なんて空けられない、バチがあたる。

 認めてくれた、とか祝福とか。なんとなくそんなことを考えてはみたが、私はあんなものの気持ちを推し量れるほどの器量ではない。しかしありがたく受け取っておこう。