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HONEYsuckle

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放課後デート数回目


 小さい頃から夢中で追い掛けていた白と黒は、いつしか正面から迫ってくるものに変わった。小さい頃から隣を走っていた夢は、いつしか現実に変わっていった。同じようにいつか、今が過去になって、あの頃と呼ぶようになって、そして薄れて霞んでいくのだ。それでも確かに忘れないために、色濃いピースを一つでも多く作るのだ。思い出の断片をジグソーパズルのように嵌めていったとき輪郭がぼやけていても、あたたかで幸せだった時間の名残が、優しい模様を描けるように。


「悪い、待った?」
 息をきらせながらも弾んだ声が聞こえて顔を上げると、額に汗を滲ませた円堂が駆け寄ってきて階段の手摺にもたれ掛かった。鬼道は読んでいた小説を閉じて鞄を持ち直す。お互い着替えのせいで荷物が膨らんでいた。
「遅かったな」
「うん…電車一本逃してさ。メールしようかと思ったら、電池切れてて…」
「そうか」
 ごにょごにょと言い訳した円堂が項垂れて謝るのを見て、鬼道は読んでいた小説がつまらなかったことも、多少の遅刻も、全部どうでも良いような気がした。
「先に軽く何か食べるか」
「そうしようぜー俺腹減ったぁ」
 急かしたのは時間を気にしている訳ではなくて、単に駅の近くは知り合いに見付かるリスクが高いからだった。別に見られても友達同士で遊びに来ていると思われるだけなのだろうが、邪魔されないに越したことはないと鬼道は思う。二人きりでいられるのは、とても貴重なことなのだ。
「なんだその顔は」
「…もしかして俺って汗臭い?」
 鬼道は思わず頷こうかと首を振りかけて止めた。咄嗟に浮かんだ部活の後だから仕方ないというフォローは特に付け加えず、微妙に緩んだ口元はそのままに否定する。まるで恥じらいを覚えたての子供のようで、柄でもなく円堂にそういうことを気にされると調子が狂う。一緒にサッカーをしていた頃は汗をかこうがそれを放置しようがお構い無しだったくせに、と思って顔が熱くなった。
「お互い様だろ」
「鬼道は制汗剤の匂いがする」
「…な」
 首元に鼻を近付ける円堂の気配で飛び退くように振り返ると、その反応に今度は円堂が赤くなる番だった。友達という範囲から抜けると色々なことが複雑で単純でそれでいて歯痒い。友達じゃないから許されることがあって、でもそういう雰囲気に慣れていないから踏み出せなくて、一方が寄ると一方が下がるような微妙な距離を行き来しながら、越えようとする境界線はうっすらと見えてきていた。ただその線が深い溝か壁かチョークのラインかを測りかね、手探りで歩いているだけのこと。
「人目につく場所でそういうことをするな」
 ごめんと返した円堂の声は沈んではいなかった。触れるなと言われたわけではない。こうやって鬼道はいつも拒絶には条件をつけることにいつしか円堂は気付いていた。完全に突き放したり、傷付けてしまう寸前で手を引き、掬い上げるような狡さがある。分かっているから、人目につかないなら良いのかなんて円堂は聞かない。
 その代わりに、いつだったか鬼道が手を繋ぎたいから変装して来いと言ったことを、ぼんやりと思い出す。あの日は互いに最後まで打てなかったホームランを、今なら叩き出せるだろうか。あるいはもっと素直に、遠くか二人きりになれる何処かに、行けばいいのかと考えた辺りで、突然腕を鬼道に引かれて路地裏に入った。
「どうした?」
 少し怯えたような様子を心配して円堂が覗き込もうと屈むと、その肩は押し戻されて鬼道が首を横に振る。
「いや…帝国の、生徒がいた」
 鬼道の目は奥で大きく揺れて小刻みに動き、声は力なく潜められていた。通り掛かった帝国の生徒とやらが想像する鬼道有人とはかけ離れた小さな肩を見て、円堂は初めて、目の前の男をかわいそうだと思った。人をはっきりと憐れむ自覚は音もなく自分を傷付けて、自覚した己の残酷さに、胸はひび割れるように鋭く痛む。軋んだ音をたてる心を鬼道もまた抱えて傍にいてくれるのだと思って、強く、肩に乗せられた手を握ると、緊張で固く冷たくなった掌はびくんと跳ね、やがて緩やかに縮まるように、その指を握り返した。
「鬼道」
 罪悪感を全て自分が貰ってやれれば良かったのにと、円堂はいつも考えていた。自分の何倍も苦しみながら離れないでいてくれることが、嬉しくて悲しい。正直に言えば、円堂にも辛さばかりが頭を占めることがある。それでも頻繁に見る悪夢は誰かに責められることではなく、鬼道と別れる日のことだった。いつか来る絶望と剥がせない罪悪感とに押し潰されながら、それでも何処かで、もう今はどうでも良いと思う自分がある。
「鬼道」
 もう一度名前を呼んだ。少し温かくなった手を握り返したら、なんだか今ならその痛みを分かち合えるような気がして、円堂は吸い寄せられるようにキスをした。初めてのことだった。唇はまだ冷たい。すぐ脇の道路を行き交う人が、もし此方を見ていたらという恐怖が背中を走って、固く閉ざした目はずっと瞑ったままだった。
「…鉄の味が、する」
 唇が離れた瞬間に鬼道が呟いた。余裕はなく逃げ腰の消え入りそうな笑顔だったが、円堂にはそれがまるで一人ぼっちの夜に見上げた星ように、ちっぽけで弱々しいくせにとても、綺麗に見えた。

作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき