HONEYsuckle
駆け落ち6日目
俺はたぶん人と繋がっていなければ、不安で空いた心の隙間を埋めることが出来なかったのだ。愛情もあって不自由なく育てられたのに、子供の頃の俺はとても不安定でいつも揺らいでいて、そんな俺がやっと見付けた居場所というのがサッカーだった。ボールを追い掛けていればいつも誰かと関わりを持てたし、目標があるというのは他のことを難しく考える余裕を上手く奪っていってくれた。俺が空っぽになってしまわなかったのは、紛れもなくそんな一つの出会いのお陰で。
言うなれば、地球は軸を中心に自転しながら太陽のまわりを回るというけど、俺にとってその軸というのがサッカーだったのだ。
県境の川沿いをバスで移動中、窓の外に見えた白い影に思わず手を取り合って降り立った。聞いたこともない名前のバス停は、一時間に数本しかとまらないような小さなもので、下車したのは自分達だけで。それでも思わず足が動いたのだ。河川敷のサッカーコート。古めかしいのに塗り直された白いペンキが眩しいゴールポスト。懐かしさが込み上げた。数知れない思い出の詰まったあの場所を彷彿とさせる少し狭いグラウンドが、呼んでいる気がして。
「サッカーやろう鬼道!」
約束を頑なに守って、付き合い初めてからもう何年も、円堂と鬼道が二人きりでサッカーの話をすることはなかった。でも円堂は、一週間全部を忘れて普通の恋人になろうと言ったのだ。鬼道は思わず逸る気持ちを胸に押し込むようにゆっくりと頷き、靴ヒモを締め直した。
「実はさあ、俺ボール持ってきてんだ。だからちょっと鞄デカくなっちゃったけど」
「奇遇だな」
「え?」
「俺もだ」
「…うっそだあ」
円堂は二つのボールを見比べて可笑しそうに声を上げて笑った。流石にスパイクはなかったが、ボールもグローブもあって大きな不都合はない。グラウンドの状態は良くもない代わりに際立って悪い訳でもなく、それが却って気持ちを突ついてくる。
ボールを取り出した鞄は小さく萎んだ。円堂が蹴り出したボールは鬼道に渡り、気付いた時には、お互い夢中でボールを追い掛けていた。汗をかくのが気持ち良くて、体を動かしていれば頭の中はからっぽに出来て、好きだった、どうしようもなく、その瞬間にいつも焦がれて生きてきた。
「鬼道のサッカーは」
「なんだ」
「…俺のと似てる気がするんだ」
ボールと共にぶつかってくる言葉や感情がたまらなく嬉しかった。いつも隣を誰かが走ってくれる感覚に勇気を貰っていた。正面から向かってくる相手との勝負にたくさんの思いを懸けてきた。
「そうだな」
まるで違う生き方をして、違う場所で違うものを目指してサッカーをしてきたのに、出した答えは同じだった気がした。鬼道は雷門に飛び込んでいった日のことを思い出す。間違いなく自分は円堂のサッカーに惹かれたのだ。いくらでも先を見せてくれる、そんなサッカーに魅せられたのだ。サッカーを通して見える円堂守という人間に惚れたのだ。自分と似ていると思ったのだ。同じものを見てると思った。サッカーに対する思いが、そういう傾き方が、とても似ていると思った。
「好きだ」
「うん」
「ずっと好きだった。円堂守のサッカーが、好きだった」
「なんだサッカーの話か!」
自分にとっての一番の幸せとは何か考えた。円堂とずっとサッカーが出来て、好きでいることを許されるなら、それが一番嬉しい。でも自分には裏切りたくない家族がいて、譲ることの出来ない将来があって、今更不幸にするわけにはいかない人がいる。それを踏まえて出した一番の答えはとっくに自分と円堂の間に約束されていて、でも鬼道は、今この瞬間だけは本物で在りたかった。鬼道有人ではないちっぽけな一人の人間として、自分が一番好きなサッカーを、生涯で最も好きでいたかった男とするおそらく最後のその時を、動かないように、滲まないように強く胸に焼き付けて、この先を生きていくのだと思った。
「好きだ」
諦めたものと捨てきれない思いの狭間で、鬼道は一生この時間を抱えて生きていくのだと思った。大好きだったサッカーと、忘れられそうもない位には好きで苦しいくらいの初恋を胸に仕舞って、たとえ好きだと伝えられる時間が終わったとしても、自分は生きていくのだと。
作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき