HONEYsuckle
駆け落ち3日目
もし明日世界が滅びるなら、誰も先の利益なんて考えることなく今日という日を、ただ助け合って生きることが出来るのだろうか。世界と引き換えに愛が手に入れるとしたら、俺はちゃんと世界を救って欲しいと望めるだろうか。空想はあくまで空っぽなまま、募る思いを笑うように飲み込んで膨らむ。
でもまだきっと地球は滅びはしない。愛か世界かなんて選択肢が与えられることなんてない。だからこそちっぽけな愛で世界を満たして、大切な人が笑って生きられる場所をつくってやりたいと、俺達は願うことが出来るのだ。
「海だー!」
空は白けたように淡い水色を広げて、海と溶け合うように水平線を暈している。冷たい潮風が駆ける肌寒い海岸には誰もおらず、円堂は浜に着くなり水際まで駆け寄って叫び、満足したように鬼道を振り返って手招きした。
乾いた砂が足元を崩して歩行を拒み、鬼道は思うように前へ進めず、やがて自棄になって靴を脱ぎ捨て、裸足で後を追う。
「き…っ、鬼道、足怪我するぞ」
「お前は脱ぐなよ」
「鬼道こそ脱ぐなって…!」
慌てた円堂に靴を押し付けられても、鬼道は頑なに履こうとはしなかった。
砂浜は日本にしては綺麗だ。時折鋭い石が落ちていたりはするが、砂の質は滑らかな丸みを帯びた均一なもので、足を傷付けることはそれほど心配ではなかった。多少傷付いたくらいではもう困ることもない。サッカーに費やせる時間は終わったのだ。
「子供の頃、いつも羨ましかったんだ」
「砂浜で裸足になるのが?」
怪訝そうに首を傾げた円堂を見て吹き出した。すごい顔をしている。硝子の針の上に立つ訳でもないのに、そんなに心配することはないだろうと思いながらも、それが満更でもなくて、円堂の手から靴を奪って大人しく履く。
「怪我や失敗を恐れないで遊べることが、だ」
影山がいた頃は、いつも見張られているような気がして無茶なんて出来なかった、と鬼道は靴ヒモを結びながら他愛ない世間話のように語った。足を痛める危険のあることは一切禁止されていたし、時には遊具に近寄らせて貰えないこともあった。守られていたと言えばそうだし、縛られていたと言われても否定はしないけれど、少なくとも居心地は悪かった、と。
「じゃあ砂遊びとかしたことない?」
「あるとは思うが両親の生きてた頃の話だな。鬼道に引き取られたときには、もうそんな年じゃなかった」
「海とか行かなかったの?」
「いや、それは…海外に行ったときには何度か」
「すげえ」
「まあ、浜で遊ぶという発想はなかった」
靴を履く鬼道と視線の高さを合わせるようにしゃがんで質問攻めにしながら、円堂は砂で高い山を作っていた。鬼道が首を傾げて隣に座ると、その頂上に小さな流木を突き刺して掌の砂を払った。
「じゃあこれ知ってるか?」
交代で周りから砂を少しずつとっていき、山を崩した方が負け、と言って円堂は見本を見せるように梺を削った。陳腐な遊びだ。鬼道だって知ってはいる。知っていてやったことのないことが、鬼道にはたくさんあった。
「崩したら罰ゲームな」
円堂が何気なく言ったそれに鬼道は唇を歪ませるように笑って、両手に収まりきらない程の量の砂を大胆に取った。負けず嫌いだといつも言われていた。誰と比べてもまず劣りはしないくらいに、昔から。
「あっなんだよ鬼道、勝つ気満々じゃん」
「当然だ。負けて楽しい試合なんて」
「ない?」
「…そうそう、な」
お互い黙々と山を削っていった。勝てなくても楽しかった試合なんて今ではいくつも思い出せる。初めて円堂としたサッカーは、敵でも負けてもどんな点差でも、忘れられない勝負になった。楽しかったのだ。
「…あ!」
円堂が大きな声を上げた。ぱたりと倒れた流木は欠けた砂の山を転がって落ちた。
「俺の勝ちだな」
「くそー」
そう言う割に円堂の声は満足げだった。山を作り直しながら罰ゲームは?と聞いてくるので、鬼道もそれを手伝いながら短く唸るように頭を捻る。
「…なら俺の何処をいつ好きになった?前にはぐらかしただろお前」
ぎくりと表情を固くした円堂がちらりと上目で鬼道を見ると、聞いた鬼道もまたバツの悪い顔をして作業に没頭する振りをしている。砂の山はもう既に必要以上に高く聳えていた。
「…俺の好きは多分、初めはただの憧れだったんだよな」
円堂は頂上に流木を刺した。
「鬼道は空みたいだって、ずっとそう思ってた。手なんて届きっこないくらい遠くて、高くて、見上げると眩しくてさ」
話しながらまた山を削り始めた円堂に倣って鬼道も砂を取る。先程より大きなその山は少しばかり崩した位ではびくともせず、緩やかに裾から砂を削がれていく。
「好きって最初に気付いたのは多分、雷門に来るちょっと前くらいかな。帝国と世宇子の試合の後で鬼道の家に行って、その帰り位には、もう自覚してた気がする」
初めは躊躇していたくせに、口を開いたら円堂は饒舌だった。山は大分細くなって、鬼道は話が途切れた瞬間、次の罰ゲームなんてもう思い付かないなと密かに思う。頭の中が、円堂のくれる言葉でいっぱいだった。
「いつも肩肘張ってる鬼道が、笑ってくれたり弱味を見せてくれるのが、嬉しかったんだ」
染み通るような甘い響きを孕んで、その声は鼓膜を震わせる。鬼道は滲む涙が溢れないように唇を噛んで、俯いたまま砂を掘った。
「眩しくて遠いのはお前の方だろう」
鬼道は涙で歪んだ視界の中で砂を掻く円堂の大きな手を見て、悲しくもないのに溢れる苦しさが胸をいっぱいにするのを抑えきれなくなった。まだ泣いてはいないと思ったが、それに近い顔をしていると思って上を向けない。いつの間にか浜はうっすらと温かくなって、砂は白く瞬くように輝いていた。
「手が届かないと思ってたのは俺の方だ。お前が俺を見上げてたんじゃない、俺がお前を仰いでたんだ。初めて試合したあの日から」
宇宙には上も下もないのだろう。でも空は地球にある。重力に引かれて自由のない空は、ただ空気の奥で息を潜めて求めていた。自分を輝かせてくれる、その大きな光を。
「まるで太陽だと思ってた」
恥ずかしい言葉だと思った。転がるように流木は鬼道の手によって山から落とされ、砂をくっつけたまま宙を漂った手は円堂によって強く握られた。
触れるだけの優しいキスをされた。それは罰ゲームとは程遠い。
作品名:HONEYsuckle 作家名:あつき