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さざめき 零れ 流れる

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制服を着ていたことをね、ふとした瞬間に思い出すのよ、と母が言った。

その日は学校が休みだったのだろうか。上手く思い出せない。でも、少しずつオレンジ色を濃くしていくような空気の中で夕飯を作る母の手伝いをしていたのだから、きっと休みだったのだろう。記憶は気付かないうちに少しずつ削れていくのだ。優しく、望まないうちに。
そのときあった、楽しいことも、辛いことも、そりゃあ覚えているんだけど。
母の声はゆっくり、静かに、流れていくようにして台所に響く。台所はいつだって音に溢れている。鍋から聞こえるカタカタと煮立つ音。母の手元から聞こえるハンバーグの種を混ぜる音。あたしの手元からは絹さやの筋を取る音が聞こえる。ポキリ、シュッ。温かい音に紛れるように、染みこむように母の声が響く。
ふと、思い出すのはね、何でもないことばっかりなのよ。
例えば?と尋ねるあたしの声は、何だか浮いているように聞こえた。母はうっすらと笑う。何かを、思い出すように。
そうねぇ……訊かれると、難しいわねぇ。
考え込むようにして母の出した答えは、今思い出してもおかしなものだった。
下駄箱に、ポンッと靴を置いた瞬間を覚えてる。
なぁにそれ、と笑うと母も一緒になって笑った。全く、変よねと。薄い笑みはしばらくするといっそう薄く遠い目になり、そうして歌うように優しい声が台所に響いた。
そのときに、顔を上げて見えたものを、今でもねぇ覚えているのよ。
何が見えたの?とあたしは訊いたのだろうか。思い出せない。記憶はそこで途切れている。多分、訊けてはいないのだと思う。あのときの空気は、尋ねてはいけないものだった。母だけの風景。大事にしまわれた写真のように、いつの間にか褪せていく色鮮やかなもの。その頃にはもう、踏み込めるほどあたしは子供ではなくなってしまっていた。だからこそ、母もポロリと零してしまったのだろう。焼き付いてしまった、欠片を。
かつて少女だった母が見たものを、あたしもこれから見るのだろうか。
大人になった母から見れば何でもないこと。時の流れの中に容赦なく飲み込まれていくもの。
でも、少女だった母が見たときには。
確かに、焼き付いたものを。

予感がオレンジ色の空気に紛れてそっと、届くから。
あたしは何かを探すように、じっと、見つめる。
作品名:さざめき 零れ 流れる 作家名:フミ