さざめき 零れ 流れる
カァンッと空気を裂くように、金属バットが真芯を捉えた音がする。浴びるほど聞いているのに、いつまでも慣れない不思議な音。聞こえると、いつだって振り仰ぎたくなる音だ。田島くんの打ったボールは綺麗な弧を描く。それを何となしに見ていると、「遊んでんじゃねぇぞ!」とキャプテンの声がグラウンドに響いた。笑う声とはしゃぐ声がその後に続く。あたしは堪えられなかった笑いを顔の表面に浮かべて、トンボを持った一人の背中を見つけてしまうとすうっと消した。一通り躊躇ったのちに、意を決してぶっきらぼうな後ろ姿に声をかける。
「阿部くん」
振り返っても、表れたのはぶっきらぼうな表情だった。「なに?」とピンと張るように声を出されると、三橋くんじゃなくてもビクリとしてしまう。
「あの、さっき、余計なことして……」
ごめんなさい。と続くはずだった言葉は阿部くんのギュッと寄せられた眉で止まってしまった。あぁ、やっぱり悪いことをしたんだ、と確信のようなものが芽生えて胸がぐるぐると回る。午前中に見た光景と一緒に。県大の三塁側で、睨みつけるように語られた過去と一緒に。
「タカヤ!」は、阿部くんだ。フェンス越しで自分の名前をあんなに強く呼ばれたのに、阿部くんは観客席でただ無表情だった。気付いて欲しくなかったんだろうか。なかったことに、したいんだろうか。その気持ちがチラリと垣間見れるほど、阿部くんは平然と自分の名前を無視してみせた。無視できなかったのはあたしだ。そうして阿部くんの過去がヒラリと舞い降りてしまった。どうしたって感じてしまう罪悪感のようなものを、そのときからずっと持て余していた。黙っていればよかった、と思わなくも無いのだけれど、何度でも同じことを繰り返してしまうだろう自分にも気付いてはいた。だって。
自分の考えにぐるぐると巻き込まれていたあたしの上から、小さな声が降ってくる。
「……別に。気にすんな」
こっちこそ、ゴメン。
整備へと戻る背中越しの謝罪は掠れて聞こえた。あたしは一瞬、濃くなったような背中の輪郭に目を凝らしたけれど、それはすぐさま消えてしまった。「三橋!」と呼びつける声はいつだってまっすぐすぎて、ビックリしてしまうのは本当に良く分かる。ビクリと揺れた三橋くんの背中にちょっと笑った。荷物の整理にベンチへ戻ると、カチャカチャと事務的な音が耳を擦る。暗くなった手元を見ながら、やっぱりあの頃より背が伸びているんだな、と何となく思った。あたしは、背中ばかり見てるな、とも。
無視は、出来ない。あたしはあの呼び方を無視することは出来ない。
だって、あたし、あの人見たことあるよ。阿部くん。
その昔、野球選手になりたかったあたしは、こっそりと神さまに呪いを飛ばした。
どうして女の子に生まれたんだって、悔しくて悔しくて神さまに地団駄を踏んでいた。今では、女の子に生まれてよかったな、と思うことの方が多いけれど。それでも心の奥底に、あの気持ちは今でもひっそりと横たわっているのだと思う。あれはあたしの最初の挫折だった。
あたしより小さかった男の子は、あたしより大きくなって、あたしよりも力が強くなって。
あたしの行けない場所に行く。それは挫折以外の何物でもなかった。最初に意識したのは、多分、マラソン大会だ。学年が上がっていくと、男子の方が多い距離を走るようになる。あたしはそれすらどうしても悔しかった。もう、男子と同じ土俵には立てないんだよと言われているようで。お前に行けるのはここまでなんだよ、と線を引かれているようで。その線に負けない人もいて、そういう人を心から尊敬するけれど、でも、あたしはそんな風になれなかった。あたしは、諦めた。
小学校でやっていた野球が中学に入ってソフトボールに変わると、へこんだ心は諦めを経て、そうして緩やかに回復していった。
女の子は、楽しいよ、と。教えてくれた友達に心から感謝する。あたしは女の子でするソフトボールが好きだった。部活だし、辛いことも痛いこともそりゃああったけれど。それでも、楽しかった。あたしはあの時間がとても大切だったし、好きだった。
結局、野球への思いは捨てられるようなものではなかったのだけど。
自分なりの立ち位置で野球を応援できるようになったのは、きっと中学時代のおかげだろうな、と思っているのだ、本当に。
女の子である自分を認められたことは、大きい。否応無しだ。
短かった髪をほんの少し伸ばし始めた頃、あたしは彼を、認識した。
微かな、しかし確かな怖さと共に。
作品名:さざめき 零れ 流れる 作家名:フミ