さざめき 零れ 流れる
同じような夕日の中で、同じ人の横顔を違う気持ちで見ている。あの笑顔は、彼の中にはもう無いのだろうか。この違和感は何だろう。「あの頃の方が良かった」なんて、阿部くんは口が裂けても言わないだろう。思ってもいないのだろう。これからの方が良いんだって、きっと誰より信じてる。そんな阿部くんに、疑問を抱いたことなどまるで無いのに。
ねぇ阿部くん、笑い方、変わったね。
「阿部くんは」
唐突なあたしの声に、驚いたように振り向いた。窓からの光が、顔の右半分に影を作る。その無防備な表情に急かされるように言葉を続けた。
「どういうとき、嬉しい?」
試合に勝ったとき?
牽制成功したとき?
タッチアウト取ったとき?
ピッチャーがリード通りに投げたとき?
それとも、スゴイ球を受け止めたとき?
ねぇ、何か違うの?
違ってしまうものなの?
ねぇ、今、阿部くんは、野球楽しい?
浮かされたように話ながら、あたしは自分にも胸の中で問いかける。
何であたし、泣きそうなの?
震えた声がようやく止まると、居たたまれなくて俯いた。それは、あたしが聞いていいことじゃないと、ただ見ているだけしか出来ない、出来なかったあたしが聞いていいことではないと、ずっとずっと思っていたことだったのに。
シニアの頃の阿部くん。怪我だらけ、痣だらけなのにまっすぐに向かう鮮やかな残像。
そして今、いつもほんの少しの苛立ちを持って、分からない何かに立ち向かう阿部くんがいる。
ねぇ、どっちが一人?あたしには、今の方が。今の方が一人に見えるよ。
奥歯をギュッと噛みしめる。どうして言ってしまったんだろう。どうして今なの?二人きりの教室で、情けないくらい後悔してる。それでもあたしは、臆病な自分を握り締めるようにして顔を上げる。夕焼けが作る影は、表情をよく見えなくさせる。負けない視線は二人の真ん中に落ちた。
そうして、困ったように笑う。
「篠岡は、強いな」
予想外の言葉というのは、どんな人にも瞬きをさせるものなのだ。あのときの阿部くんみたいに。そして今のあたしのように。
「……どこが?」
堪えた涙の余韻で微かに震える声が出るから、ますますそう思う。あたしは全然強くない。どんなときでもまっすぐになんて立てない。歪んでしまった顔に、阿部くんは思わず怯んだように身体を逸らしたけれど、それでもやはりまっすぐにあたしに言葉を放った。
「篠岡は、何でも、ちゃんと見てるからさ」
きっと、オレの見えないものも、オレが見ようとしないものも、ちゃんと見るんだ。
すげぇよ、と言って阿部くんは視線を窓へと向けた。この角度で見えるものは夕日だ。きっと、あたしが見たものだけではないものが、この色の中に詰まっているのだろう。それを阿部くんはずっと見ないのだろうか。思わず口を開いて、何と言っていいのか分からずに中途半端な位置で止まる。あたしの口が動くよりも先に、阿部くんの唇が静かに動く方が早かった。
「でも、いつか、ここでなら」
見れるといい。と動いたのはあたしの錯覚だろうか。願望、ではないと思う。そんな風に思われたら、あたしはやっぱり淋しくなるから。でも、安心するのも本当。どっちだろうか。動いたかどうかを確かめようとしたけれど、阿部くんが視線を合わせてきたのに先を越された。
「篠岡が言ったの、オレ全部嬉しいと思う。ああいうとき、オレは全部嬉しい。今、オレはちゃんと嬉しいよ。でも、違うかどうかは正直分かんねぇ」
首を傾げて、ゆっくりと阿部くんが取り出した答えに、あたしは思わず目を細めた。
確かめるように。大事に、受け止めるように。
「オレは、多分。一人じゃないって思うとき、嬉しいんだ」
うん、と言うと掠れてしまったので慌てて何度も頷いた。阿部くんもあたしにつられるようにして何回か頷いてみせる。それがおかしくてあたしは思わず笑ってしまう。ついでにちょっと俯いた。笑っちゃったのを隠すためだけど、泣きそうなのを隠すのにも丁度いいので。あたしは俯いたまま、改めて実感したことをポツンと零した。
「あたし、西浦入ってよかったな」
野球部入れて、よかった。
改めて視線を合わせて笑顔を作った。子供みたいな動作を笑ってしまったあたしに機嫌を損ねたような、泣きそうなあたしの声に戸惑うような顔をしていた阿部くんは、フッと真剣な表情になる。
そうして言った。
「オレもだ」
静かに零れ落ちた笑顔。あの頃よりも穏やかで、弾けるような眩しさの消えた、夕日の影が強く落ちる、強い笑顔。ふわりと後ろでカーテンが舞った。オレンジ色の光をまとい、ふわりと。あたしはそれを見ながら願う。強く強く願う。
どうか、この笑顔を、あたしがずっと忘れませんように。
願いは、時の中でさざめき、零れ、流れていくだろう。
どんなに願っても、変わらずに残るものなんてない。記憶は、薄れていくものだから。
でも、きっと焼き付いた。
ふと見上げては思い出す、欠片のような眩しさが。
それは、もしかしたら永遠と呼べるのかもしれないと思って、あたしは笑った。
作品名:さざめき 零れ 流れる 作家名:フミ