さざめき 零れ 流れる
例外を除けば、テストのあるときくらいしか早く帰れないのは、あの頃も今も同じだ。まだ制服がスタンダードな形をした頃の夕焼けの帰り道は、とても珍しいものだった。だからこそ、残ってしまうのだと思う。ふとした拍子に蘇ってしまうのだと思う。夕日で紺色のスカートが色を変えて見えた帰り道が。重いスカートを閃かせながら、あたし達は歩く。話していた内容はまるで思い出せないのに、歩いていた風景だけはやけに鮮やかに思い出せるから不思議だ。学校指定のだっさいスニーカーのつま先が、進む形を、覚えている。
パシリと音を鳴らして踏んだものは落ち葉だと視線を下ろして確認する。そうして上げた視線をまたそっと逸らした。
あの人が、前を歩いていたから。
逸らした視線が、何だか負けたような気分にさせられたのであたしは改めて前を向く。短い髪の形の良い頭が早足のせいで揺れていた。ほんの少しだけ高い位置にあるものをじっと見つめる。
向こう側にある表情は、見えるはずも無い。あの目は見えない。だったら、華奢な身体つきは自分とそう変わらないように見えた。まとう学ランは体と合っていないようだ。中一の同級生達に良くある、どこにでもあるちょっと小柄なだけの影。
思いを馳せるように飛んだ意識は、隣を歩いていた友人の笑い声で急速にあたしの中に戻ってきた。いつも連れ立って帰るグループの一人の、大げさな身振り手振りに良く分からないけれど笑ってしまう。
そのまま何もなければ、フッと遠くに、あの後ろ姿を意識から、視線から、きっと記憶からも追いやることが出来たのに。
「タカヤ!」
その声はやっぱり突然割り込んできた。空気を切り裂くように、圧倒的な存在感で。気付けばあたしは前を見ていた。ぽかんとした、横顔を。ふいをつかれてあどけなく映る、構えたところの無い表情。
「お前、何してるん?」
声をかけた人は楽しげに見えたのだけれど、何だか怖い、と本能的に思った。
そうして、思ったことはもう一つ。
この人、多分、あの投手だ。
自分にあざをつけた人に、改めて彼が見せたのは呆れた表情だった。
「帰ってんですよ。アンタこそこんなトコで何やってんすか?」
「あ?オレ?かーちゃんに頼まれモン」
だって今日、練習ねぇからさ。
ボソリと、つまらなそうに放たれた言葉を、彼は受け止めかねたように瞬きをした。自分の手の中に落ちてきたのが思いもよらないものだったので、確かめてみるみたいに。何回かの瞬きの後、ふいに彼が取り出したのが柔らかな目の色だったので驚いてしまう。そんなものを、持っているとは思わなかったので。
とっさに緩んでしまった頬を、慌てて閉じ込めるように彼は目の前の投手を睨む。それはいつも通りの目のきつさだったけれど、投手は何も気に止めた様子も無く、間にあった距離を縮めた。
「なぁ、お前、ここ知ってる?」
ポケットから取り出した白い紙を広げる。あたし達は立ち止まった彼らをあっさりと追い抜く。通り過ぎて友達が「あの人、ちょっと格好良いね」と笑いながら言っていたけれど、その余韻はすぐに消えて、帰り道の会話は違う話題へと移って行った。あたしを残して。あたしは前にあった注意を後ろに残して歩き続ける。通りすがりに見えたくしゃくしゃになった紙に、見づらいと言いたげに眉をしかめていた人は、全く別のことを言った。
「まぁ、この近くっちゃ近くだけど……迷ったんすか?」
「ちげーよ。間違えたんだよ」
「道を間違えて分かんなくなることを、迷ったって言うんすよ。てか、頼まれたんなら道くらい訊いといて下さいよ」
「うっせーなぁ……訊きづらかったんだよ」
不貞腐れた声に、軽やかな笑い声が被った。あたしはそれに我慢が出来なくなってとうとう振り向いてしまう。彼らは気付かない。背の高い方から伸びた右手が、背の低い方の頭を軽く小突いた。またあの笑顔だ。奔放で楽しげでなぜか怖い笑顔。それと、どうしようもなく零れてしまった笑顔。あたしには気付かない。ぼんやりと目を逸らして、それからずっと前だけを向いていた。
気付かないまま笑いあう彼らは、オレンジ色の夕日に照らされてとても綺麗だった。忘れられない、忘れたくないと思ってしまうほど、すぐに壊れてしまいそうなほど、綺麗だった。
作品名:さざめき 零れ 流れる 作家名:フミ