けもの道
仙蔵が別れを告げにきて以来、本当に彼らの姿を見なくなった。もちろんすぐに追うべく家を飛び出したが、仙蔵の姿どころか、彼らの家さえもぬけのからとなっていた。たった2週間程度の出来事はあの暑い夏の日の蜃気楼のように記憶の中で朧気になっていった。それでも十数年たった今も彼の背格好に似た艶のある黒髪を目で追ってしまう程度には記憶に焼き付いて離れない。
彼らは一体何者だったのか。その答えは一月ほどして自然と知ることになった。当時から恐らく人ではないのだろうとは思っていたが、妖怪や狐の類にばかされたにしては触れた唇はあたたかすぎた。そしてその時の、私も好きだった、とすでに過去形にされた言葉が囁かれた耳元から離れない。
*
残暑にしては太陽の日射しが厳しい。蜃気楼を横目に見ながら、木陰となる道端を歩いた。ここまで暑いとさすがのおれも多少しんどい。なるべく早めに帰った方がいいなと考えながら道を曲がると、蹲った影がすぐ足元にあって反射的に立ち止まった。そして自分の目を思わず疑う。暑さ故の幻じゃないのを確認して、腕を掴んだ。鬱陶しそうな視線と共にあがった顔を確認して、そのまま引き寄せて腕の中に抱きしめた。一瞬だけ見えた驚きと喜びをない交ぜにした表情につい頬が緩んだ。
「文、次郎……?」
「ようやく見つけた……あんな殺し文句吐いて消えやがって」
「うるさいはなせ、暑苦しい」
「おまえは相変わらず冷たい身体だな」
腕を緩めてやると、はじめてまともにおれを見た仙蔵の顔色が青くなった。無理もない、おれの顔は十数年前から全く変わっていないのだから。
「文次郎、おまえ、まさか」
「ああ、おれも吸血鬼になったんだ」
「なんでっ……」
「初めて会ったとき薔薇の棘を抜いてやっただろ。そのときに傷が出来たがすぐ洗わず放っておいたんだ」
くしゃりと顔を歪めた仙蔵の頭をそっと撫でてやる。黒髪が熱を吸収して、そこだけ不釣り合いにあたたかかった。
「そんな顔をするな。伊作から一方的な手紙で色々と聞かされたが、おれはこうなったことを後悔していない。むしろもう二度とおまえを離さなくていいと思ってほっとしてるぐらいだ」
薔薇の刺で傷ができてたのを見ていた伊作が、嫌な予感が当たっている気がするからと一月ほどたってから文をよこしてきた。差し出しもとが書かれていないその文には吸血鬼のエネルギー補給の仕方や生活上の注意点、そして吸血鬼が年をとれない事などが記されていた。
「お節介が過ぎるからこんなことになるんだばかものっ……おまえは、その身体になって私と共にいるということが、どういうことか分かっていないからそんなことを言えるんだ」
「おれなりにずっと考えてきた。そのうえで生き続ける覚悟を決めておまえをさがしたんだ。伊作は手紙の最後に次はもう避けないと書いてくれた」
「伊作が……」
「ああ。だからおまえもおれと生き続ける覚悟を、うおっ」
勢いよく首に腕をまわされて、身体が少し傾いだ。ぎゅうぎゅうと肩に押しつけられた顔の耳がほのかに染まっている。
「それくらいあるにきまってるだろ」
「そうか」
くぐもって聞こえた声に返事をして力の限り抱きしめ返した。先ほどよりも仙蔵の身体が随分とあたたかいように感じるのは気のせいだろうか。もうこの腕を緩めなくていいという幸せをかみしめる。蜃気楼は知らぬ間に消えていた。