けもの道
僕の忠告にも関わらず、仙蔵は2、3日に1度はあの男のもとに通っているようだった。鼻がきくから気付いたというのもあるが、それ以前に奴に会いにいき帰ってきたときの仙蔵は明らかに纏う雰囲気が違った。記憶をさかのぼってもいつ最後に見たかわからないほど生き生きとした仙蔵を見れば見るほど胸が締め付けられた。全てに気付かないふりをしていたけれど、それも今日でおしまい。
「仙蔵」
呼べば一人がけソファで薔薇を弄んでいた仙蔵が振り返った。まだ眠そうな瞳を見つめて、一息で吐き出す。
「ここを発とう」
仙蔵は一瞬何を言われたのか理解できなかったようで、目をぱちぱちと瞬かせた。
「え、夏の間にはここにいようと」
「うん、夏のはじめに来たときは確かにそう言った。けど、これ以上ここにいるのはためにならないと思って」
「どうしてっ」
「どうして?」
それは言わなくても仙蔵が一番分かっていることだった。わざわざぼくの口から言わせたいのかと疑問形にして聞き返せば、仙蔵は口をつぐんだ。かわりにソファから立ち上がり玄関へと足をむけてしまう。
「仙蔵」
「少し外にでてくるだけだ」
パタンとドアの閉まる音がして、ぼくは無意識のうちにつめていた息を吐き出した。こうなるであろうことは分かっていたが、いざ直面すると胸が痛む。自分の決断が間違っているとは思わない。これ以上ここにいたとして、傷つくのは他でもない仙蔵なのだ。だから仙蔵を苦しめないために次の土地を用意した。正論だが詭弁だ。分かっている。
ただしひとつだけ懸念している事がある。万が一ぼくの予感があたってしまっているとしたら、いや予感はあたっているだろう――それが凶とでるか吉とでるかはまだわからないが、おそらく。
(もし彼が本当に仙蔵を救う救世主だというのなら)
疑わしくきこえるだろうが、ぼくは心底仙蔵の幸せを祈っている。それが彼に対する罪滅ぼしの気持ちや偽善だとは思わない。だってぼくは彼を愛しているのだ、連れ去ってしまうくらいに。
*
もうすぐ九月に入るというのに、外では太陽が容赦なく照りつけていた。湿気を含んだ熱風をうけて、瞬間目眩がした。倒れぬようしっかり地面を踏みしめ、早足で歩き出す。最近数度通ってもう慣れてしまった道のりをたどっていく。
目的地にはすぐに着いてしまった。しかしすぐにドアをたたく勇気はなく、いっそ居留守でいてくれればいいのにと願った。古びた扉の前で僅かなあいだ立ち往生していると、扉の方が先に開いた。
「やはりいたか」
「なっ、何故いるのがわかった」
「中から道を駆けてくるのが見えた。暑いだろ、はやく入れ」
引き返すこともできず文次郎の後に続いた。しかし土間をこえてあがってはいけないと冷静な思考が告げていた。
「今日は何の話がいいんだ?哲学か独語か宗教か……仙蔵?どうした、気分でも悪いのか?」
玄関に立ちっぱなしの私を振り返って文次郎が眉を潜めた。
脈打たない心臓がキリキリと痛んだ。胸が苦しいとはおそらくこういうときに使う言葉なのだろう。呼吸とはこんなにも困難なものだっただろうか。
「もう、ここには来ない」
「……は?」
吃驚している文次郎の顔を直視できずに足下に視線をうつした。
「他へうつることになったんだ、だから」
「そんな急な」
「仕方ないことなんだ」
「仙蔵、おれは、おまえのことが、」
「言うなっ!」
あまりの声の大きさに自分でも驚いた。反射的に顔をあげると文次郎の真剣すぎる視線にぶつかって、喉の奥がやけるように痛くなった。文次郎の言葉の先を聞けば私は忘れていたはずの泣き方を思い出してしまう。
「頼むから……」
次に絞り出した声は情けないほど小さかった。文次郎が無言で私の頭を撫でる。きっと私は、この手のあたたかさを一生忘れないだろう。
土間のせいでいつも以上に高い位置にある文次郎の胸元を掴んでひきよせる。ただ触れるだけの口付けは、今までで一番寂しい味がした。耳元に唇をよせて、胸元をはなす。文次郎の呆気にとられた顔が面白くて、今日はじめて笑みを浮かべることができた。
「運さえよければ、また会えることもあるだろう。ただし、おまえが私を忘れさえしなければ」
後ろ手で扉を開いて、伸びてきた腕をかわし扉をすり抜けた。最後くらい嘘でも笑ってみせろ、ばかもの。