バルカ機関報告書
エレナはバルカの総帥の背中を見ながら呟いた。エレナはバルカの内部で反旗を翻したオークランドとその一派の動きについてすでに知っている。ジュリアーノ・コレオーネは処刑した男の血筋を大事に、ほとんど我が子のようにして養育していることになる。エレナにはそうするバルカ王の気持ちが何となく理解できた。道は違えども相手の生き方を尊敬しているということなのだろう。
「……ジュリアーノぼうやが、戦闘機を使わずに、自分が危険を引き受けたのは、あの子達を戦場に駆り出したくなかったからなのですよ。実は最新の戦闘機のパイロットの育成が追いつかず、もしも戦争になればあの二人を出撃させなければならなかったのだそうです。だから、ジュリアーノぼうやは無理をしたのです、自分が泥をかぶって、あの子達を生かそうとした」
エレナはしばらく考え込むようしてから、静かに尋ねた。
「バルカの王にしてはセンチメンタルですね……」
「人は誰しも心に聖域をもっているものですよ。どんな英雄であったも。だから、英雄のお話は悲劇に終わる。アーサー王も、ローランも、ベオウルフもみんなそう」
「聖域ですか……」
「ジュリアーノぼうやにとっての聖域は義理の姉のキョウコ様。兄君の奥様ですが、本当に愛しておられた。本当に。多分、世界でただ一人愛された方なのでしょう。だから、忘れ形見をどうしても危険に合わせることが忍びなかった。そういうことなのでしょう」
ああ。エレナは呻くように言った。すべての謎が一息に解けたような気がしたのだ。そうか、憧憬がドン・コレオーネの行動原理の全てであったか。
「兄嫁に恋慕、ですか……」
エレナは肺腑から息を絞り出して言った。
兄嫁を愛し、その息子を同じように慈しむ。そのためであれば処刑の危険も省みない。多くの人間を不幸にし、破滅に追いやって平然としている科学の法王も人間以上の存在にはなれないのだ。神としては力が足りず、人としては力のあり過ぎる若者は、エレナの目の前で昔、愛した女の息子の竿を振って餌を投げている。鉛の重りがライナーで飛び、遠く海面にぽちゃんと音を立てて落下した。そして、そこで初めて、バルカの王は、エレナ達のほうに気がついたようである。若者は遠くから軽く手を振り、それに続いてリサのほうも大きく手を上げた。生意気な小娘は、実はエレナのことを『まあまあ尊敬できる』人間と思ってくれているらしい。学校のクラスメイトはもちろん、教師よりも自分のほうが格段に優れていると信じて疑わないリサにしてみれば、これは破格の待遇である。一報ツカサの方は照れがあるのだろうか。手を振るでもなく、もじもじとしているばかりなのだ。エレナも軽く手を振ってそれに応じた。
「運命というものは……本当にままならないものなのですねえ」
エレナは言い、彼女の倍以上を生きた老人は厳かにうなずいた。
「全く、全く……」
海からの穏やかな風がエレナの頬を撫でた。
ゆりかもめがどこかで悲しく鳴いていた。