約束は甘やかに
池袋某所。
事務所に設置された2台の電話機が音を立てている。平和島静雄は柔らかく身体を受け止めるオフィスチェアに投げ出したままぼんやりと聞いていた。結局1コールも鳴らないうちからトムが受話器を上げ応対を開始する。
「はい、こちら平和島探偵事務所」
事務所を開くにあたりデスク周りに張り込んだだけあって、所長席のオフィスチェアのすわり心地は十二分に満足するものだった。静雄はその長い足を持て余し気味に放り出して椅子に埋もれている。その目は細められ、トムを見据えている。
「かしこまりました、それでは、明日お約束どおりの時間に」
習い性なのか、電話の相手に向けた優しい声には優しい顔がついてくる。トムが微かな笑みを浮かべて電話を終えるのを見るのが静雄は嫌いだ。
情けない嫉妬とわかってはいても、客に優しげな声をかけるのが嫌いだし、ましてや営業スマイルとは言え、優しい笑顔を向けるのはもっと嫌いだ。電話であれば、相手に見えていない分マシではある。マシであるだけで。
「静雄ぉ」
「…はい?」
「俺、あした、午後外だから留守番よろしく。事務所の電話そんなに鳴らねーとは思うけど」
更にその出先がたまにある「所長を連れて行かないお得意様」であれば、静雄の不機嫌はどんどん膨らんでいく。
再会した10年前ならともかく、平和島という姓を分かちあう関係になり、生業も二人一緒でやっと二人分の仕事を確保できるようになってきた今であれば、その不機嫌も口に出すことを禁忌とはしなくなっている。
不機嫌のままでいると、相手も不機嫌になる。
お互いが他人でなくなり、四六時中一緒にいるとなると、自然そういった間合いのようなものもなんとなく掴めてくるようになった。
「また…えーっと、名前がわからん、あのいつもの会社ですか?」
「んー、まあいつものって言やそうだな」
「…なんで、俺、連れてってくんないんですか」
少し前まではミディアムヘアに緩いニュアンスパーマを当てた優男然としたヘアスタイルだったのに何を思ったか急に短く、短く、刈りそろえてしまった髪を見て静雄は小さく、わざとらしくため息をつく。
その髪型が厭なわけではない。むしろ精悍な印象が増している分、静雄に向けるへらっとした優しい笑い方とのギャップが大きくて、笑顔を向けられると今までよりもっと胸がきゅっとなるくらいで、全くもって悪くない。
静雄を見るときだけそうなっているトムの穏やかな瞳はリムレスフレームの奥で笑っていて、目が合った一瞬に、静雄は怯んだように目を逸らす。顔全体での優しい笑みを向けたあと、トムは自分のデスクへ向き直り、積み上げてあった書類をやっつけ始める。
ぱさ、ぱさ、と音を立てる書類は、クリップを宛がわれ、クリアファイルに差し込まれ、それぞれが纏められていく。デスクの引き出しをガラガラと開けて大きなファイルを取り出しては書類を綴じていく。その動きを緩めることはせずにトムは口を開いた。
「まぁ、簡単な仕事だから俺独りで行って来るんだし、所長はゆっくり留守番してなさいな」
その口調の裏には「淋しいと思ってんのがお前だけだとでも言うつもりか」というニュアンスがしっかりとこめられていて、静雄の反論を防ごうとしている。
静雄もそれは分かっていても、それでも反論することをやめなかった。
「留守番、そりゃしてますよ。でもね、あんた、俺には粟楠との縁きらせといて、自分は繋ぎ太くしようとしてるなんざ、」
「………なんの、話?」
「粟楠の下請みたいなもんでしょう、あの会社」
革張りのオフィスチェアからのっそりと身体を離して、静雄はトムのデスクへ近づいていく。
トムはそちらへちらりと視線だけを走らせ、作業を続ける。デスクの前に仁王立ちになった静雄をかるく無視した状態になり、静雄は子供っぽく唇を尖らせる。
見下ろした状況で小さく名前を呼ぶ。
「トムさん」
「んー、なに?」
「人の言ってること、無視しないでくれますか」
トムは短くなった髪の毛を指の腹でかき混ぜながら立ち上がる。その顔は言い訳を取り繕う子供のようで、静雄はその顔を見ただけで反射的に許しそうになる。
それを分かってやっているのか、立ち上がってもまだ十分以上に高い静雄の目線をちらりと上目遣いで伺う。
「いや、静雄が気づいてるとは思ってなかったからこう、気まずいなーって」
「…てことは、粟楠絡みってことなんすね。だったらもひとつ聞きますけど、なんで俺は留守番ですか、所長なんでしょ、俺」
静雄の肩に手を伸ばして引き寄せる。キスくらいじゃごまかされない、と言いたげな視線に眉を下げて苦笑する。寛げられたワイシャツの襟元から覗く白い首筋にキスを贈る。落とす、とはいえない身長差。
「ごまかさねーから、とりあえず座ってくれよ」
キスもできやしないんだから、そういってへにゃりとした笑みを浮かべる。静雄としては、ごまかすごまかさない以前にそうやって笑うことが反則だ。
ドレッドヘアとバーテン服で取り立て業務に就いていたときから変わらない。いやもっと昔、本当にガキだった中学の頃にも、何回かはそうやって笑ってくれていたはずだ。
当時はもっとカッコいいイメージがあったんだけど、思い出が美化されてるだけだろうか、と失礼なことも考えつつ静雄はなだめられるままトムのデスクのオフィスチェアに腰掛ける。
キシ、と椅子が鳴いた。
あぁ、やっぱ、俺の使ってる椅子のほうがいい奴なんじゃないか、とぼんやり考えていると、トムは行儀悪くデスクの縁にちょこんと腰を乗せた。そうすると静雄は少しだけ、トムを見上げるかたちになる。
「えっとな、」
「はい」
まるで教師を見つめるような目で静雄はトムを見上げる。その声をひとつもこぼさないよう拾い集める真剣さで。
思わずトムは「いいこいいこ」と変わらない長めの金髪を撫でた。本数も、太さも、艶もコシも変わらない、ちょっとだけ毛先にかけて痛んでいるのも変わらないその鮮やかな金髪。
「とりあえず、だ。平和島静雄と粟楠会、平和島トムと粟楠会、こういう繋がりは一切無し。おまえに隠して繋いでなんかねぇかんな?静雄もないよな?」
「…ないっすけど」
「あ、おま、今ちょっと疑ってんだろ」
「はぁ。つうか、あの赤林ってオッサン時々くるじゃないすか」
「………あれは諦めた、じゃなくて。俺もお前もオッサンだべ、でもなくて…。えーっと、」
「はい?」
「とりあえずあの人は置いといて。おもいっきり任侠つかヤクザやってる粟楠とずぶずぶってのは仕事もあるしちょっといただけない、が。仕事やら情報やらのツテもいるってな訳で、ああいう会社に入ってもらってる訳だわな」
静雄の顔はまったく納得していない表情を浮かべていて。トムはこまったなという思いを顔にくっきりだしている。
事務所に設置された2台の電話機が音を立てている。平和島静雄は柔らかく身体を受け止めるオフィスチェアに投げ出したままぼんやりと聞いていた。結局1コールも鳴らないうちからトムが受話器を上げ応対を開始する。
「はい、こちら平和島探偵事務所」
事務所を開くにあたりデスク周りに張り込んだだけあって、所長席のオフィスチェアのすわり心地は十二分に満足するものだった。静雄はその長い足を持て余し気味に放り出して椅子に埋もれている。その目は細められ、トムを見据えている。
「かしこまりました、それでは、明日お約束どおりの時間に」
習い性なのか、電話の相手に向けた優しい声には優しい顔がついてくる。トムが微かな笑みを浮かべて電話を終えるのを見るのが静雄は嫌いだ。
情けない嫉妬とわかってはいても、客に優しげな声をかけるのが嫌いだし、ましてや営業スマイルとは言え、優しい笑顔を向けるのはもっと嫌いだ。電話であれば、相手に見えていない分マシではある。マシであるだけで。
「静雄ぉ」
「…はい?」
「俺、あした、午後外だから留守番よろしく。事務所の電話そんなに鳴らねーとは思うけど」
更にその出先がたまにある「所長を連れて行かないお得意様」であれば、静雄の不機嫌はどんどん膨らんでいく。
再会した10年前ならともかく、平和島という姓を分かちあう関係になり、生業も二人一緒でやっと二人分の仕事を確保できるようになってきた今であれば、その不機嫌も口に出すことを禁忌とはしなくなっている。
不機嫌のままでいると、相手も不機嫌になる。
お互いが他人でなくなり、四六時中一緒にいるとなると、自然そういった間合いのようなものもなんとなく掴めてくるようになった。
「また…えーっと、名前がわからん、あのいつもの会社ですか?」
「んー、まあいつものって言やそうだな」
「…なんで、俺、連れてってくんないんですか」
少し前まではミディアムヘアに緩いニュアンスパーマを当てた優男然としたヘアスタイルだったのに何を思ったか急に短く、短く、刈りそろえてしまった髪を見て静雄は小さく、わざとらしくため息をつく。
その髪型が厭なわけではない。むしろ精悍な印象が増している分、静雄に向けるへらっとした優しい笑い方とのギャップが大きくて、笑顔を向けられると今までよりもっと胸がきゅっとなるくらいで、全くもって悪くない。
静雄を見るときだけそうなっているトムの穏やかな瞳はリムレスフレームの奥で笑っていて、目が合った一瞬に、静雄は怯んだように目を逸らす。顔全体での優しい笑みを向けたあと、トムは自分のデスクへ向き直り、積み上げてあった書類をやっつけ始める。
ぱさ、ぱさ、と音を立てる書類は、クリップを宛がわれ、クリアファイルに差し込まれ、それぞれが纏められていく。デスクの引き出しをガラガラと開けて大きなファイルを取り出しては書類を綴じていく。その動きを緩めることはせずにトムは口を開いた。
「まぁ、簡単な仕事だから俺独りで行って来るんだし、所長はゆっくり留守番してなさいな」
その口調の裏には「淋しいと思ってんのがお前だけだとでも言うつもりか」というニュアンスがしっかりとこめられていて、静雄の反論を防ごうとしている。
静雄もそれは分かっていても、それでも反論することをやめなかった。
「留守番、そりゃしてますよ。でもね、あんた、俺には粟楠との縁きらせといて、自分は繋ぎ太くしようとしてるなんざ、」
「………なんの、話?」
「粟楠の下請みたいなもんでしょう、あの会社」
革張りのオフィスチェアからのっそりと身体を離して、静雄はトムのデスクへ近づいていく。
トムはそちらへちらりと視線だけを走らせ、作業を続ける。デスクの前に仁王立ちになった静雄をかるく無視した状態になり、静雄は子供っぽく唇を尖らせる。
見下ろした状況で小さく名前を呼ぶ。
「トムさん」
「んー、なに?」
「人の言ってること、無視しないでくれますか」
トムは短くなった髪の毛を指の腹でかき混ぜながら立ち上がる。その顔は言い訳を取り繕う子供のようで、静雄はその顔を見ただけで反射的に許しそうになる。
それを分かってやっているのか、立ち上がってもまだ十分以上に高い静雄の目線をちらりと上目遣いで伺う。
「いや、静雄が気づいてるとは思ってなかったからこう、気まずいなーって」
「…てことは、粟楠絡みってことなんすね。だったらもひとつ聞きますけど、なんで俺は留守番ですか、所長なんでしょ、俺」
静雄の肩に手を伸ばして引き寄せる。キスくらいじゃごまかされない、と言いたげな視線に眉を下げて苦笑する。寛げられたワイシャツの襟元から覗く白い首筋にキスを贈る。落とす、とはいえない身長差。
「ごまかさねーから、とりあえず座ってくれよ」
キスもできやしないんだから、そういってへにゃりとした笑みを浮かべる。静雄としては、ごまかすごまかさない以前にそうやって笑うことが反則だ。
ドレッドヘアとバーテン服で取り立て業務に就いていたときから変わらない。いやもっと昔、本当にガキだった中学の頃にも、何回かはそうやって笑ってくれていたはずだ。
当時はもっとカッコいいイメージがあったんだけど、思い出が美化されてるだけだろうか、と失礼なことも考えつつ静雄はなだめられるままトムのデスクのオフィスチェアに腰掛ける。
キシ、と椅子が鳴いた。
あぁ、やっぱ、俺の使ってる椅子のほうがいい奴なんじゃないか、とぼんやり考えていると、トムは行儀悪くデスクの縁にちょこんと腰を乗せた。そうすると静雄は少しだけ、トムを見上げるかたちになる。
「えっとな、」
「はい」
まるで教師を見つめるような目で静雄はトムを見上げる。その声をひとつもこぼさないよう拾い集める真剣さで。
思わずトムは「いいこいいこ」と変わらない長めの金髪を撫でた。本数も、太さも、艶もコシも変わらない、ちょっとだけ毛先にかけて痛んでいるのも変わらないその鮮やかな金髪。
「とりあえず、だ。平和島静雄と粟楠会、平和島トムと粟楠会、こういう繋がりは一切無し。おまえに隠して繋いでなんかねぇかんな?静雄もないよな?」
「…ないっすけど」
「あ、おま、今ちょっと疑ってんだろ」
「はぁ。つうか、あの赤林ってオッサン時々くるじゃないすか」
「………あれは諦めた、じゃなくて。俺もお前もオッサンだべ、でもなくて…。えーっと、」
「はい?」
「とりあえずあの人は置いといて。おもいっきり任侠つかヤクザやってる粟楠とずぶずぶってのは仕事もあるしちょっといただけない、が。仕事やら情報やらのツテもいるってな訳で、ああいう会社に入ってもらってる訳だわな」
静雄の顔はまったく納得していない表情を浮かべていて。トムはこまったなという思いを顔にくっきりだしている。