ivy
鍵のかかっていない窓を越え、室内に音もなく降り立ってすぐに、部屋の主は真っ暗い部屋の奥にあるベッドの上で横になっているらしいとユーリは気がついた。
雨の音が遠くに聴こえる。
整頓されどこか閑散としている部屋は、普段からここで生活しているという匂いがあまりしない。
この世界の復旧と復興、騎士団の再建に努めている騎士団長の多忙さが影に潜んでいる。
デスクにかけられた外套とマント、その傍らに置かれた鎧。ベッド近くの床の上には几帳面な親友らしくもなく、脱ぎ捨てたらしい手袋がばらばらの位置に落とされていた。
なんとなくこの部屋に戻ってきてからどんな移動の仕方をしたかが予想できる配置に、苦笑する。
ユーリは手にしたアルトスクから託された現皇帝宛の密書を、デスクの上に数枚重ねられている書類の上に置き、簡単なメモを添えた。そして、床に落ちている片方ずつの手袋をそれぞれ拾い上げるとソファに放って、部屋を出るべく窓の方に足を向ける。
どうやら帰りの雨は避けられないらしい。
それには少し憂鬱だった。
「ユーリ」
不意に、渇いた声が呼ぶ。
ユーリは少し驚いて暗闇を振り返る。
明るい月も見込めない闇の中で、先ほどまでとは明らかに違う気配がベッドの上に寝転がっていた。
小さく、詰めた息をため息で吐き出す。
「お前、そんなに眠り浅かったか?」
救われねぇな、とぼやいた。
もはや一種の職業病で、きっと夢も見られないのだ。
そうしてベッド脇に歩み寄って覗き込むと、片腕をベッドの外に投げ出し、縮こまるみたいに背をまるめて横になっているフレンと視線が合致した。寝乱れているというよりは、伸びて、くたびれた金髪がシーツの上の枕もない場所で散らばっている。くすんだ金は手を入れると指に掛かりそうだった。
「どんだけ気ぃ張ってんだよ」
ベッドの上だというのに床で雑魚寝しているのとそう変わらない体勢の親友に、ユーリは苦笑する。
ゆっくり、深い呼吸をしてからフレンが目を閉じた。
「お忍びで使者が来るっていう話は聞いていたから」
だからだよ、というフレンに言い訳染みていると思いながらもユーリは頷く。
互いに数ヶ月、否、半年振りに交わす会話だった。
書簡や人づてに連絡を取ることはあったが、面と向かって話す機会や時間はなかった。
「寝て待つつもりでもなかったんだが…、すまないな」
起き上がろうとするフレンを手で制し、ユーリは側にあったサイドテーブルに寄りかかる。
「どうせオレだって分かってんだから、気にせず寝とけよ。今さら願い叶っての再会なんて間柄でもねぇんだし、重大な責務を担う騎士団長様が疲労困憊、睡眠不足でぶっ倒れてみろ、芋づる式で次ぶっ倒れんのはエステルだぜ?」
「アルギロス陛下、と言わない所が君らしい」
「あの皇帝が倒れるわけねぇだろ。お前やエステルよりよっぽど器用でそつがねぇのに」
「………ユーリ、君は」
帝国を治める最大権威を何だと思ってるんだとフレンは白々とユーリを見るが、怒る気色もなければ、皮肉混じりなユーリの気遣いに気づかないわけでもない。
浅く息を吐き出して体を天井に向けた。
呼吸が少し楽になる。
覗き見るユーリが肩を竦める。
「で、寝れたのか?」
「ああ、だいぶ楽になったよ」
「そうか…、無理すんなよ、あんま」
「それはお互いにな」
ユーリがおう、とひとつ返事に笑う。
それを見上げたフレンも表情をゆるめた。
日も暮れた後、報告のために赴いた謁見の間で現皇帝と皇帝補佐に見え、変わらず二人が元気に賢明であってくれたことが確認できてほっとしたが、親友も元気そうだと知れればまた違う安堵がある。
「ユニオン会議以来か…、そっちはどうだった?」
「んー?ギルドの連中と色々走り回っちゃいるが、忙しくてどこもまだ手が足りてねぇってのが現状だな。帝都ともなれば話は別だが。半年振り、噂に聞いちゃいてもほとんど復旧してんの目の当たりにして驚いたぜ」
関心しきりにユーリは喋る。
本格的に雨の降りだした外を見ながら、それまでの記憶をたどるように目を伏せて語る横顔は、一頃より短く切られた髪もあってか幼い頃の面影が強く滲んでみえた。それでも、その精悍さに翳りは微塵もない。
したたかに生きている。
ユーリも、そしてその周りにいる仲間たちも。
時折その口元に浮かぶ笑みはどんな言葉よりも雄弁だった。
きっと旅をしたあの頃と同じように、いてくれている。
「何だよ?」
ユーリはサイドテーブルから離れ、ベッドの端に腰を下ろした。
その分だけ沈む方へ目をやったフレンが小さく笑う。
「いや、元気そうで何よりだと思って」
「その体たらくのお前が言うか…」
それきりユーリが黙るとしんと静けさが際立った。
小雨の音が部屋に響く。
フレンは可笑しそうにベッドの上で笑っている。
近くなったせいか記憶に焼きついている深い群青色をしたノートが鼻についた。
深い水の底のような、手の届かない空の果てのようなものに似た、感覚的な匂い。
香水なんかつける性分でもないから、その匂いのもとがどこにあるのかは知らない。
けれど、昔からそうだった。ぼんやりとユーリは思う。
「なぁ、フレン」
シーツに半分埋もれ、もう半分も髪に隠れるフレンの顔を触って、伸びた髪を耳にかけてやると、急に何だと言う顔をしながらも、相変わらず冷たい手だとユーリの手をどこか心もとなくフレンは笑った。
「抱かせねぇ?」
眼球が乾く前に双眸は2、3度瞬く。
ユーリの吐いた端的な言葉の意味を理解するのに、フレンはしばらくの時間を要したようで、理解した途端に片眉を跳ね上げ、悪い夢から覚めたような顔になった。
「………、…冗談だろ?」
「いやマジで」
「何てこと真顔、で」
ここで頬を赤らめたりするのなら少しは可愛げがあるのかも知れないが、フレンの表情からは血の気が引いたように見え、ユーリは明らかに動揺している様子を見眇めた後に、くすんだ金の前髪を引っ掛けないように持ち上げ、生え際に唇を落とした。
恋人同士のキスなんかじゃない。
そういう優しいだけのものじゃできない。
「ユーリ、ちょっと待っ…」
とりあえず、冗談にしたいらしいフレンの手がユーリの肩を掴んだ。
ユーリは顔を少し離し、間近に見る青い目の上澄みに映し込まれる影のような色が夜ではなく自分の姿であることを見つけ、まだ困惑している様子が窺い知れると、可笑しな気分になって笑いたくなるのを堪える。
正直言って、大した情欲なんて沸いてない。
ならば何でこうも抵抗なく、食事に誘うように口にしてしまったのか。
「なぁ、」
「、」
疲弊にかすれたその出かかりの低音の声。
青い色はこんなに低いところでも澄む。
「…………冗談じゃ、」
「ないって」
お互い真剣な顔で、交わす視線に言葉で探り合えない真意を知ろうとする。
それ以上のことはため息の中に消えてしまった。