そばにいて
自信のなさそうな声?
私は元気だと、弱ってることを悟られないようにしてきた。
そしてそれは成功している。はず。
『頼む、心配する俺の身にもなってくれ。辛いときは辛い、しんどいなら助けてくれって言え。無理に虚勢張られたって余計に心配するだけだろ』
成功していなかったことが残念だとは思うよりも、ただ驚いた。
どうしてこの人が知っているのだろう。
アメリカさんが咳をしていたことを、あぁそうかこの人は知っている。ならば次は私だろうと、そういう寸法なのか。なんにせよ、知られているのなら仕方がない。知られたくなかったけれど、余計な心配を掛けたくなかったけれど、諦めて白状しよう。
「……ただの、風邪ですから」
『お前なぁ。いい加減諦めろ』
あなたの言うように“諦め”て白状したのに。まだ何を言えというのかと、日本は分からない。
風邪です。今あなたに言いました。
「……どうして私に電話を?」
『どうして、だろうな?』
「インクの話ですか」
『日本、しんどいなら電話を切るけど、大丈夫か?』
「切ってしまうのですか。それは、困ります」
本当に困ると思った。まだ、声を聞いていたい。まだ足りない。もう少し一緒にいてほしい。
「もう少しだけ、このままで」
『大丈夫だ。ここにいる』
「はい」
おなじ時を繋ぐ電話機が、すばらしいものに思えた。実際すばらしい発明品なのだが、今日ほどその実力に感謝したことはない。いる、との保証を貰い、安心しながら考えてみる。問いかけられたのは、電話を掛けた理由だったか。インクの話しではなかった。では何だろう。私たちのあいだに、理由などいらないはず。“特に用はないんだ”、そう言って掛けてくる電話が好きだった。それはいつか話したことがあるから、イギリスさんも知っているでしょう。けれど今は理由がある、らしい。なんだろう。思い至る理由に見当がつかないわけではなかった。一つだけ、あるのだ。しかし、日本はそれだと思いたくなかった。自惚れも大概にせねば。そこまで望んで、彼の手を煩わせたくない。
――意地を張るな。
イギリスの先刻の声がよみがえる。
意地ではなく、慎ましさのつもりなのだけれど。
それでも彼はきっと、今の私を是としない。
「心配を、お掛けしましたか」
『分かってるじゃないか』
すみませんと言ったはずだが届かなかったのか、返事はなかった。変わりに、先ほどの諭すような声に反して、拗ねた声が耳に流れ込んできた。
『俺が風邪をひいてたとして、日本は俺に何を思うんだよ』
「ひかないでくださいね。心配しますから」
『即答かよ……。――その心配を、俺はしちゃいけないのか』
「……いいえ、……嬉しいです」
――望んでも、良いというのですか。
『俺は今、日本をものすごく心配してる』
――嬉しい。この人の中に、私がいる。
相変わらず身体は熱い。頭痛も続いているけれど、不思議に和らいでいた。
生まれた余裕を頼りに、やはり訊ねてみる。
あなたに心配されないために、
「一言も言ってないのですが」
純粋な疑問を、イギリスは深刻に捉えた。
『……なに弱気になってるんだ? ただの風邪だろ。大丈夫だ。すぐに良くなる』
そうではなくて。
……やめよう。
彼の言うとおり、弱気になっている。
誰も私のことなど気にかけない。
私は一人。
私は孤独。
確かに、そう思っていた。
弱い。
だから知られたくなくて、
「誰にも、言わなかったのですよ」
イギリスはひとつだけ、ため息をついた。それから通る声ではっきりと言った。
『――声聞きゃわかるだろ。声聞いて体調まではわからなくても、“いつもと違う”くらいはわかる。それだけお前のことを気にかけてるんだよ。あいつらは』
そう、なのだろうか。
こんな小さな島国。極東の。以前は誰も目もくれなかった私を、気にかけてくれていたのだろうか。風邪を引いたくらいで自信をなくしてしまうくらいに薄い私を、気にかけてくれたのだろうか。
イギリスさんは。イギリスさんも、こんな私を見てくれるだろうか。
「イギリスさんも?」
『当たり前だろ。俺は仕事片付けてから、できるだけ早く行こうとしてたんだけど、あちこちから今すぐ日本の様子をみろって煩くて。それで電話したんだ。で、体調の方はどうなんだ?』
当たり前。躊躇なく選ばれた言葉に、胸のつっかえが取れたように呼吸が楽になった。
「おかげさまで、だいぶん落ち着いた気がします」
『そっか。でも行くからな』
「看病に?」
『それ以外なにがあんだよ』
「いえ。ではうつさないように、治さなくてはいけませんね」
『まぁ、しっかり寝てろよな』
「はい。イギリスさん、お電話ありがとうございます」
『礼なら、』
その先に見当がついて、慌てて息を吸い込んだ。
「その元気はどうもなさそうなので、イギリスさんにお願いしてもいいですか?」
『……引き受けた』
「あの、このあと直ぐじゃなくて、家に来てからお礼の電話を頼みたいのですが」
『……日本、もうちょっとストレートにならないか? つまりはやく来いってこと、なんだよな?』
「さすがイギリスさんです。だてに長く一緒に居ませんね」
『ばぁか。素直になるところが違うだろ』
「イギリスさんに言われたくないです」
『悪かったな、俺が言って。どこに居るんだ?』
「私ですか? 居間です。固定電話があるのはここなので」
『じゃぁ電話切ったらすぐにふとんに入れ。で、温まれ』
「わかりました。それでは、お待ちしていますね」
通信が切れるころには、水で濡れた頬も乾いていて、棘のあった気持ちもすっかり丸くなっていた。完全にとは行かないけれど回転を取り戻した頭で、日本は何にどこから謝ろうかと考え苦笑した。電話をくださった皆さんへの手を抜いた対応。それでも私からなにかを感じようとしてくださったこと。彼らに抱いた感情。イギリスさんへ手を回してくれたこと。いくら余裕がなかったとはいえ、道理から外れることをしてしまった。日本は彼らへ謝った。邪険にしたことは気づかれていないと信じて、心の中で。ただ、感謝は言葉で以って伝えなければ。イギリスさんの口からですが。自分で伝えるのは、元気になってからにしよう。一度失った自信を取り戻すのに、時間は掛かるものだ。
早く会いたい。声を聴きたい。
日本はその気持ちだけを胸に広げた。
約束をしたから、彼の人は方々に電話をする。私のそばで話すあなたの声を聴きながら、眠りに落ちたい。
熱で膨張したはっきりしない頭と気だるい身体を、なんとかふとんまで運んだ。安堵をもたらした人の言いつけを守るために、日本は眸を閉じて、自然に目が覚めるまで眠り続けた。
......END.