暗夜と波紋
新宿のとあるマンションの最上階、その一室は薄暗さを保ったまま夜を迎えようとしていた。街の中心部から幾らか離れたマンションに、飛び交うネオンの光は届かない。「眠らない街」と称される新宿の街も、この場所からでは出来の良い嘘のよう。薄暗い部屋と迫りくる夜、相打つふたつの黒を切り離すのは明度の低い天井照明のみ。暖色がかった照明器具だけだ。部屋は暗闇との境界線をぼかし、不安定な状態でそこに在る。
薄暗い照明の下、転がるのは凡その人間が理解出来やしない情報とがらくたの数々。そして、それらを統括するべく空間に鎮座するのが、全身に黒を纏った男―――即ち波江の雇い主である折原なのだった。処務をするには差し障りのない明るさであったものの、それは混沌とした部屋の薄気味悪さを助長していた。彼曰く「この方が落ち着く」、らしい。フラッシュバック、折原の台詞と共に、粘着質のものが素肌に張り付くかのような、言い難い不快さを孕んだ笑みを思い出す。密やかに眉をひそめながら、波江は折原のデスクにカップソーサーを置く。
「ああ、ご苦労様」
声と共に折原が顔を上げる。声が部屋の空気を震わすのは久しい事だ。緊張の糸が途切れたのか、折原は手元の資料を手放した。もう用はないと言わんばかりの所作である。
「ねぇ、ここでひとつ面白い話をしてあげようか」
ブレイクタイムへと移行したらしい折原の左手にあるのは、ガラス製の小瓶。コルクで蓋をされた瓶の中に白と茶の角砂糖が詰められている。
「そう」
生半可な返事を口にすれば、折原はあからさまに首を竦めた。致し方ない、興味などこれっぽっちもなかったのだから。波江の興味をそそる対象は唯一無二である。興味――否、恋慕の情すら抱く対象である弟を思い浮かべた。その瞬間に折原が滑り込む余裕なんて一瞬たりとてない。対象外なのだ。
「相変わらずつまんない女だね。まあ聞いてよ」
コルク蓋を取り角砂糖を取り出す。開かれた右手のひらの上に白と茶の角砂糖がひとつずつ。これから手品でも始めるかのように軽く指先をざわつかせ、角砂糖を弄ぶ。
「これらひとつひとつを人間だとするよ。ひとつひとつは別の色をしていてもさ、追いやられたときに取る行動って恐ろしいくらいにみんな一緒なんだ」
折原は淡々と語りながら右手を傾ける。未だ湯気立つカップに向けて滑り落ちるは角砂糖。ひとつ、ふたつ、落ちていく。重力が促す先にはコーヒーを湛えたカップ。垂直下降した角砂糖は、水面に波紋を作り溶けていく。ミルクを落としていないカップに広がるのは一面の黒。波紋が引いた今、カップは淡々とした表情の闇を湛えている。
「窮地に追いやられた人間ほど面白いものはないよ。追いやられた人間は迷いながらもがきながら…それでも落ちていくんだ。藁をも縋るような気持ちであがきながら、無様にね。まるでそう…波紋を作るように」
折原はカップを恍惚とした表情で見つめ、その縁を指で軽く小突く。
「でさ、落ちていった人間の拠り所になるのが、俺。どう、素敵な話じゃない?」
「…コーヒーひとつでそれだけの妄想を展開できて幸せね」
クリーマーに注がれたミルクよろしく、零れ落ちんばかりの皮肉。波江の台詞は折原の耳に届いたのだろうか。彼は愉悦の念を滲ませながらカップに角砂糖を投げ入れていた。繰り返すその動作。何度も何度も作られていく、波紋。幾重にも広がる輪の様を、折原は「人」に喩えた。コーヒーカップの中で小さな波紋が浮かんでは消えてゆく。その様を愉しんでいる。口許にはあの――じっとりと濡れきったような、独特の笑みを浮かべながら。念入りに何かを品定めするような視線は、普段彼が人間を見つめるそれと同一のものである。
「ああ、そういえば手を尽くしても落ちない奴がいたっけ…一人だけ」
折原を取り巻く空気が一変する。ゼンマイ仕掛けの玩具よろしく、規則的に繰り返されていた手が止まる。ヒエラルキーの頂点に立つ動物が補食対象を見るときのような、舌なめずりをするような――あの濡れそぼった笑みも消え去っていた。有象無象を見下ろすのではなく、とある対象と同じ目線でそこにいる。誰に対しての台詞、という問いは全く以て愚問である。
「ああ、早く死なないかなあ…シズちゃん」
ある人物を思い描くと同時に、溜息混じりの声が鼓膜を叩いた。波江がはっきりとした不快感を抱く間に、折原は手の中の小瓶から角砂糖をひとつ取り出していた。指先で弾かれた茶色の角砂糖は、空中で浮き上がり――それから下降していく。コーヒーカップへと落ちていく様と同じく、垂直に下降する角砂糖。長い滞空時間の末、床へと転がろうとするすんでの所で、折原の靴底が角砂糖を踏みにじる。手の中へ落ちることのないそれは、湛えた水面に波紋を作ることすら許されない。とある対象に向けた感情を、小さな角砂糖に当てつけているかのように見えた。
「今に始まった事じゃないけれど、随分とご執心なのね」
唐突としか言いようのないタイミングで飛び出した悪態に、耐え切れず口にする。これ以上折原の一人芝居に付き合わされるのも御免だったので、牽制の意も込めて。
「執着かあ。俺の事をそう言うならさ、そっくりそのまま君にも同じ言葉を返してやりたいよ」
「私の誠二への気持ちをそんな泥臭い言葉で形容しないでくれる?貴方こそ、それだけ執着する余力があるのなら早く片を付ければ良いでしょうに」
「それが出来ないから苦労してるんだけどねえ」
折原の口端に笑み。彼の表情は、対等に渡ろうとする唯一の対象へのものではなく、何かを見限ったような――いわゆる有象無象に対する表情にシフトしていた。肌で感じた事実がどうにも許し難い。同時に波江の中でとある仮定が浮かび上がり、それを意のままに口にする。
「確かにあいつは常人離れしてるわ。普通の人間なら致死レベルの危害を回避していく。でもあなたはそれを理解している筈なのに、殺せない」
「…どういう意味」
「本気で殺したがっているようには見えない、ってことよ」
ねえ、あなた。本当は――――。
薄暗い照明の下、転がるのは凡その人間が理解出来やしない情報とがらくたの数々。そして、それらを統括するべく空間に鎮座するのが、全身に黒を纏った男―――即ち波江の雇い主である折原なのだった。処務をするには差し障りのない明るさであったものの、それは混沌とした部屋の薄気味悪さを助長していた。彼曰く「この方が落ち着く」、らしい。フラッシュバック、折原の台詞と共に、粘着質のものが素肌に張り付くかのような、言い難い不快さを孕んだ笑みを思い出す。密やかに眉をひそめながら、波江は折原のデスクにカップソーサーを置く。
「ああ、ご苦労様」
声と共に折原が顔を上げる。声が部屋の空気を震わすのは久しい事だ。緊張の糸が途切れたのか、折原は手元の資料を手放した。もう用はないと言わんばかりの所作である。
「ねぇ、ここでひとつ面白い話をしてあげようか」
ブレイクタイムへと移行したらしい折原の左手にあるのは、ガラス製の小瓶。コルクで蓋をされた瓶の中に白と茶の角砂糖が詰められている。
「そう」
生半可な返事を口にすれば、折原はあからさまに首を竦めた。致し方ない、興味などこれっぽっちもなかったのだから。波江の興味をそそる対象は唯一無二である。興味――否、恋慕の情すら抱く対象である弟を思い浮かべた。その瞬間に折原が滑り込む余裕なんて一瞬たりとてない。対象外なのだ。
「相変わらずつまんない女だね。まあ聞いてよ」
コルク蓋を取り角砂糖を取り出す。開かれた右手のひらの上に白と茶の角砂糖がひとつずつ。これから手品でも始めるかのように軽く指先をざわつかせ、角砂糖を弄ぶ。
「これらひとつひとつを人間だとするよ。ひとつひとつは別の色をしていてもさ、追いやられたときに取る行動って恐ろしいくらいにみんな一緒なんだ」
折原は淡々と語りながら右手を傾ける。未だ湯気立つカップに向けて滑り落ちるは角砂糖。ひとつ、ふたつ、落ちていく。重力が促す先にはコーヒーを湛えたカップ。垂直下降した角砂糖は、水面に波紋を作り溶けていく。ミルクを落としていないカップに広がるのは一面の黒。波紋が引いた今、カップは淡々とした表情の闇を湛えている。
「窮地に追いやられた人間ほど面白いものはないよ。追いやられた人間は迷いながらもがきながら…それでも落ちていくんだ。藁をも縋るような気持ちであがきながら、無様にね。まるでそう…波紋を作るように」
折原はカップを恍惚とした表情で見つめ、その縁を指で軽く小突く。
「でさ、落ちていった人間の拠り所になるのが、俺。どう、素敵な話じゃない?」
「…コーヒーひとつでそれだけの妄想を展開できて幸せね」
クリーマーに注がれたミルクよろしく、零れ落ちんばかりの皮肉。波江の台詞は折原の耳に届いたのだろうか。彼は愉悦の念を滲ませながらカップに角砂糖を投げ入れていた。繰り返すその動作。何度も何度も作られていく、波紋。幾重にも広がる輪の様を、折原は「人」に喩えた。コーヒーカップの中で小さな波紋が浮かんでは消えてゆく。その様を愉しんでいる。口許にはあの――じっとりと濡れきったような、独特の笑みを浮かべながら。念入りに何かを品定めするような視線は、普段彼が人間を見つめるそれと同一のものである。
「ああ、そういえば手を尽くしても落ちない奴がいたっけ…一人だけ」
折原を取り巻く空気が一変する。ゼンマイ仕掛けの玩具よろしく、規則的に繰り返されていた手が止まる。ヒエラルキーの頂点に立つ動物が補食対象を見るときのような、舌なめずりをするような――あの濡れそぼった笑みも消え去っていた。有象無象を見下ろすのではなく、とある対象と同じ目線でそこにいる。誰に対しての台詞、という問いは全く以て愚問である。
「ああ、早く死なないかなあ…シズちゃん」
ある人物を思い描くと同時に、溜息混じりの声が鼓膜を叩いた。波江がはっきりとした不快感を抱く間に、折原は手の中の小瓶から角砂糖をひとつ取り出していた。指先で弾かれた茶色の角砂糖は、空中で浮き上がり――それから下降していく。コーヒーカップへと落ちていく様と同じく、垂直に下降する角砂糖。長い滞空時間の末、床へと転がろうとするすんでの所で、折原の靴底が角砂糖を踏みにじる。手の中へ落ちることのないそれは、湛えた水面に波紋を作ることすら許されない。とある対象に向けた感情を、小さな角砂糖に当てつけているかのように見えた。
「今に始まった事じゃないけれど、随分とご執心なのね」
唐突としか言いようのないタイミングで飛び出した悪態に、耐え切れず口にする。これ以上折原の一人芝居に付き合わされるのも御免だったので、牽制の意も込めて。
「執着かあ。俺の事をそう言うならさ、そっくりそのまま君にも同じ言葉を返してやりたいよ」
「私の誠二への気持ちをそんな泥臭い言葉で形容しないでくれる?貴方こそ、それだけ執着する余力があるのなら早く片を付ければ良いでしょうに」
「それが出来ないから苦労してるんだけどねえ」
折原の口端に笑み。彼の表情は、対等に渡ろうとする唯一の対象へのものではなく、何かを見限ったような――いわゆる有象無象に対する表情にシフトしていた。肌で感じた事実がどうにも許し難い。同時に波江の中でとある仮定が浮かび上がり、それを意のままに口にする。
「確かにあいつは常人離れしてるわ。普通の人間なら致死レベルの危害を回避していく。でもあなたはそれを理解している筈なのに、殺せない」
「…どういう意味」
「本気で殺したがっているようには見えない、ってことよ」
ねえ、あなた。本当は――――。