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小さな頃に

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ページをめくる指に力が入る。肩を掴む指にも力が入る。
 漫画の中ではヒロインの女の子が大きな目を瞑って頬を赤らめている。墨一色刷でも唇がつやつやしたピンク色でふっくらして見えてくる、小奇麗な絵だった。コマの中に書かれた『ドクンッ』という鼓動の音が自分のもののようだ。
 日比野の両肩を掴んでぴったりと体をくっつけていた駆が体を揺する。落ち着かないのか、早くページをめくれと言う催促なのか。
 お互いに何も言わないので、エアコンの音や外から聞こえてくる人の話し声がやけに大きく聞こえた。
 ゆっくりとページを左から右へ。
「わっ!」
 耳元で内緒声で叫ばれてびっくりした。漫画のキャラクタがこちらを見ているわけでもないのに日比野の肩に隠れて、また好奇心に負けてそっと顔を出す。その様子が面白くって笑い出した。声がやけに大きくなったのは、縁日のスーパーボールをばら蒔いたように体の中で暴れまわるドキドキを隠そうとしたからだ。本当は駆を笑えないくらい興奮している。
「そんなに騒ぐことかよ。まだキスしただけだろ?」
 キス、が早口になったことに駆は気づかなかったようだ。
「だって…」
 首の根元にぐりぐりと頭を擦りつけている。そこでモジモジしたままなかなか顔を上げないので、日比野は一人で漫画を読み進めた。ページのめくれる音に駆が反応してやっと肩に顎が戻ってきたが、またすぐに引っ込んだ。
 内気そうなヒロインの豊満な乳房が布越しに鷲掴みにされていた。ミニスカートから覗く太ももには汗が描き込まれていた。
 いくつかセリフがあって、画面はグラデーションから暗転する。
 その次のページはもう色気のない別のシーンに切り替わっていた。
「おい、エッチなシーンもう終わっちゃったぞ。」
 漫画をペラペラめくりながら日比野が声を掛けると、慎重に顔を覗かせる。その眼前に大きく開いた漫画のページを見せつけた。一番エッチな絵のあるページだ。指を挟んですぐ開けるようにしていたのだ。
「わっ!」
 急に迫ってきた漫画から逃れるように仰け反った拍子に駆は背後のクッションに尻餅をついた。笑う日比野に頬をふくらませて抗議するが、漫画を開いたり閉じたりされるたびにいちいち目を覆って身を捩る。
「もう!なにするんだよ!」
「だって、見たいって言ったの駆のくせに見ねーんだもん。」
「だ…だって…」
「お前が思ってるほどエロくねーから見てみろよ。」
「……」
 逃げられないように肩を抱いて漫画を差し出すと、生唾を飲み込んで顎が揺れる。自分でページをめくって食い入るように見る横顔を至近距離で盗み見る。
 頬が赤くて目はキラキラして、まつ毛は揺れて口は半開きだった。緊張で乾いた唇をペロリと舐める。きっと無意識のことだろうが、ページをめくるたびに舌が見えた。
 少年漫画のちょっとエッチなシーンだけ探して読ませたので、あまりページ数もなく、すぐに本が閉じられる。
「な?」
 大したことなかっただろ?というつもりで顔を覗き込むと、目を潤ませて唇を噛んでいた。駆には刺激が強かったらしい。
「…そんなにかよ。」
「仕方ないじゃん!こういうの、ちゃんと見たことなかったんだもん。」
 駆の家には妹もいるせいか、テレビドラマのラブシーンもすぐにチャンネルを替えられる。両親が、というよりも駆の一つ上の兄、傑がそうする。
「傑さんとか父ちゃんはエッチな本持ってねーの?」
「父さんはわからないけど、兄ちゃんは持ってない…と思う。」
 過保護だ。思ったけれど日比野は口にしなかった。今更だ。
 日比野は小学校もサッカークラブも一緒の駆と仲が良い。その兄の傑とも親しかった。傑は大人びていてサッカークラブの皆にも平等だが、親しく付き合ってみるとすぐに分かる、ブラコンだった。駆は気づいていないようだが。
 もしエッチな本を持っていたとしても、あの兄は弟の目に触れさせないだろう。今日のことだって、日比野は駆に口止めをしなければならない。可愛い弟にいやらしい漫画を見せただなんて知れたら睨まれてしまいそうだ。
「ふーん。これぐらい皆見てるのにな。」
「そうなの…?」
 手の中でページを行ったり来たり、ラブシーンもそうでないシーンも関係なく見て、結局キスシーンで手を止めた。
 恥ずかしがっても興味があるんじゃないか。日比野がニヤリと笑う。それに合わせたようなタイミングで駆が振り向いたので、びっくりして素早くニヤケを引っ込めた。
「あのさ、日比野」
 漫画と日比野の顔を見比べるように視線を上下させて八の字眉毛で言葉を切った。
「な、何だ?」
「…キスってしたことある?」
 こちらのキスは小声だ。小声だけど聞き逃しも聞き間違いもしなかった。
「急になんだよ」
「口と口をくっつけるだけでしょ?楽しいのかな…」
 あれほど騒いでいたくせに。自分の指で突き出した唇を押して変な顔をしている。
「楽しいんじゃなく気持ちいいんだろ。」
「指で触っても普通だよ?」
「…唇同士じゃないとダメなんじゃねーの?」
 視線が、唇に注がれているのが分かる。
 日比野自身もキスをしたことがない。漫画の中の色んな行為を見て興奮はするけれど、どれも本能のなせる技だ。具体的な想像をするには経験が足りない。足りないからこそ夢が膨らみ、キス一つで心も体も蕩けてしまうのでは、なんて妄想を抱いているのだが。
「駆、してみるか。」
 返事の前にちろりと唇を舐めた舌はどの漫画のヒロインのそれよりもエッチに見えた。

 先にアヒル口の駆が固く目を瞑ってしまったので、日比野はギリギリまで薄く目を開けて近づいた。タコみたいに突き出した唇をぶつけて二秒ほどで離れる。
「…どう?」
「…やっぱり、普通。」
 唇は日比野の方が乾いていて、直前にまた舐め濡らしていた駆の唾液でほんの少し湿った。
 また、もっとゆっくり唇を合わせてみたけれど、全身がカッとなって汗をかいたりしなかった。頭が蕩けたりもしなかったし、漫画のように感極まって目が潤むこともなかった。
 駆は「噂に聞くたこ焼きを食べてみたがたこが入ってなかった」みたいな顔で「普通」と言う。そのたこ焼きを差し出したのは日比野だ。
「ちょっと待ってろ。今のはほんとのキスじゃないんだって!思い出した!」
 本棚に飛びついてさっきとは別の漫画を引っ張り出す。
「あった!」
 開いたページを怯む駆に差し出して真面目な顔で絵を観察した。
「ちょっと口開かないとダメなんだ。」
「頭も斜めにして…」
 口を「あ」の形にして頭を傾げて口を合わせると、ちょうどカポッと合わさった。なるほど、これは収まりがいい。正解のような気がする。しかし。
 相変わらず強烈な気持ちよさや感動は襲ってこなかった。お互いの口に噛み付くような格好で静止しているとバカみたいだ。
「ねえ…」
 やっぱり失敗なんじゃない?そう言おうとして引いた頭を押さえつけられ、舌先に生暖かいものが触れる。自分のものと違う体温を感じた途端、なんだかいけないことをしているような気持ちが沸き上がってきた。
 弾かれたように離れて向かい合った時の日比野の顔を駆はよく覚えていない。
作品名:小さな頃に 作家名:3丁目