美味礼賛
猫と料理人
サンジの、幼いころは天使、今現在ですらパリの公園に並ぶブロンズ像と自称している端正な顔だちは、頂点に達し跳ね返って一度下落、更に再び頂点にまで達した不機嫌によって崩れに崩れていた。額から頬を赤く染め、目を三角にし毛を逆立てているその様子は、見ようによってはむしろこちらのほうが……と言い出す者もあるかもしれないが、その場合は、やはり端正というよりは愛嬌があると言ったほうが正解だ。
サンジは手にしていた手の平ほどのメモ用紙を丸めて地面に放り投げ、そのまま立ち去ろうとしたものの思いとどまったかのように後退、捨てたメモを拾い上げると丁寧にコンビニのゴミ箱へと捨て直した。
原因は、このメモ用紙だ。ゴミ箱に埋もれたその紙切れには、サンジの几帳面な字と線で地図が描かれていたのだが――
「あ、もしもしナミさんですか!? あの、例の先生の家、道がわからなくって」
『ええ? でも、結構わかりやすいわよね』
「それが……教えてもらった道順、もう、ぜんっぜん違うんですよ。ぜんっぜん違うんです」
電話の向こうで、ナミのああ……という、全てを悟った上で吐かれたらしいため息が漏れた。
『ごめん、すっかり忘れてたの。あいつ、ものっすごい方向音痴で……。これからも、絶対に奴に教えられた道やら地名やらは一切信用しないで。心配だったらいつでも私に確認取ってもらって構わないから』
はあ、とサンジが呆けた声を漏らすと、ナミもまた沈み込んだような口調ではあったが、淀みなく目的地までの道順をガイドしてくれた。それがまた、例の地図とはまったく違う道で、ナミに感謝の言葉を述べる一方でサンジの不機嫌は更に高まっていく。
(いったい、どうして最寄り駅から自宅へのガイドができねえんだ!)
ナミから仕事の話を持ちかけられたのは、ひと月ほど前のことだった。
料理学校を優秀な成績をおさめて卒業後、海外での修行をこれまた順調に終えて帰国したにも関わらず、とある“アテ”が外れ、このままではどうも――と混乱と困惑の最中にあったサンジには、はからずとも、ちょうど良く飛び出してきた稼ぎのクチとなったわけだ。
ナミはサンジの中学のころの先輩で、今は某出版社の編集業に就いている。若いながら、いや、若さゆえか? かなりの量の仕事をこなしているとかで、会うのは随分と久しぶりだった。
サンジが待ち合わせの喫茶店に向かうと、そこにはスーツ姿のナミがやけに険しい表情で、どうやら冷め切ってしまったコーヒーに手も付けず待ち構えていた。
そしてサンジが席に着くとおもむろに、テーブルに頭をぶつけかねない勢いで、「おねがいっ!」と切り出されたのである。
女性の側からすら引かれるほどの自称フェミニストのサンジのことだから、これには当然慌てた。ナミとは中学を卒業してからも親しくしていたが、そんなふうに頭を下げられるのははじめてのことだった。おまけに、ナミはとても美しいのだ。
「か、顔上げてくださいナミさん!」
サンジがあたふたと叫ぶと、ナミはため息を大きく吐き、気だるげに髪をかきあげながらゆっくりと顔を上げた。
「困ったことになったの」
「どうしたの? 俺ができることなら、なんでも……」
「あのね」
そうしてナミがサンジに頼み込んだのは――平たく言えば、監修、だ。サンジにはほとんど聞き覚えのない言葉だったが、どうもインターネットで検索したところによると、『[名](スル)著述・編集などを監督すること。また、その人。』とのこと。
無論最初は、まさか自分がそんな、と辞退する気だったサンジだが、ナミの鬼気迫る表情はどうやらただごとではなかった。
「時間がないの! お願い、お願いサンジ君!」
「えっと……それってどんな仕事なの? いや、聞くだけ、聞くだけだけど」
その瞬間ナミがにやりと笑ったかどうかは定かではないが、つまり彼女の説明したところによると、食に関するエッセーを連載するはずだった先生が急病で倒れてしまい、急遽代役を立てた。他の企画と連動しているためテーマは今更変えられず、テーマはそのままということでお願いしたはいいが、どうもその先生、本人こそ自覚していないが、このご時勢に珍しいほどの粗食家で、見たところ誰かその道の専門家をサポートに立てずしてはまともな作品が書けそうにもない。当然しかるべき人物を用意したものの、さるトラブルから先日急遽その人物も使えなくなってしまい――とのことらしい。
「いや、専門家って俺、そんな大層なこと……げ、現国も2だったし」
「文章はもちろん先生が書くんだから、そんな心配いらないの。サンジ君はね、その、ちょっとアドバイスをしてくれればいいのよ。一応アシスタント扱いになるから、お給料もちゃんと出るし、ねっ」
「いや、でも俺……あ、就活! 就活しなきゃいけないし!」
「そんなに時間は取らないの。取材に同行してくれるだけでいいのよ」
「いやーほんと……」
「あっ。サンジ君、春から住むところ決まってないんでしょ?」
「ど、どうしてそれを」
サンジがまともな言葉を返すよりも先にナミはどこかに素早く電話を掛け、二、三早口で言葉を交わすと、
「もってけ泥棒! 住処も確保するわ。ね、いいでしょ? ね?」
(ここか……)
今度はレシートの裏に殴り書いたメモを片手に、サンジはようやく目的地へとたどり着いた。『タワー・シモツキ』。なんとなくぱっとしない名前ではあるが、“タワー”の名に相応しい高層マンションだ。しかもたどり着いてみれば、すぐそばに駅ビルが見えるではないか。きちんとしたルートならば、徒歩5分というところだろう。賃貸にせよ分譲にせよ、かなりお高そうだ。
テレビでしか見たことのないような入り口のボタンに恐る恐る手を掛け、これまたテレビの見よう見まねで「あのー」と呟いてみると、「どうぞ」、とまるで怒っているかのようにぶっきらぼうな声が返ってきた。
(……ムカツク!)
道案内の件6割僻み4割、サンジは無意識ではあるがついに頬をプクッと膨らませ、まるでリスのような顔をしてやや装飾過多な扉を潜ったのだった。
*
インターホンを押し何度か声を掛けたものの声は返ってこず、渋々ノブを回すとあっけないくらいに分厚い扉は開いた。鍵は開けておいてくれたらしい。それにしても、一言くらい返してくれてもいいだろうに。
やや不安ではあったが、話は通してあるのだし、ええいままよ、と部屋に踏み込んだ瞬間――
「……」
サンジのふくれっ面はシュゥンと萎み、三角になっていた目は一度、二度、ぱちくりと瞬きを繰り返した後ゆっくりと、縦長になるのではないかというほど見開かれた。
「てめえ、返しやがれこらァッ!」
「ニ゛ャァァァァ!!!」
「返せっつってんだろうがァ! これは俺のだ!」
そこでは、実に間抜けな光景が繰り広げられていた。
「こんのアホネコッ! てめえにはさっきメシをやったろうが!」
「フーッ! ギニャァァ!」
猫だ。猫が人と、缶詰のキャットフードを取り合っているのだ。猫の方はなかなか綺麗な白猫で、人間の方は――まかり間違っても美しいとはサンジには言えない、随分とまたむさくるしい、男臭いのを絵に描いたようなやつだ。