美味礼賛
「な、な、なにやってんだあんた」
思わずサンジが後ずさりながら声を上げると、猫と人間とが揃ってサンジを振り返った。猫の細められた目と、男の鋭い目が妙に被っていておかしい。いや、それ以前の問題として、この状況がおかしい。
「ああ、お前か。ナミの言ってたコックってのは」
「コック……じゃ、ねえけど。まだ……」
「あ? まあいいや。早速で悪いが、ちょっと手伝ってくれねえか」
そう言うと男は猫から缶詰を無理矢理剥ぎ取り、それをそのままサンジに放った。猫の深いこげ茶の瞳がじっとりとサンジをにらみつけているようで、なんだか居心地が悪い。
「そりゃ、手伝うのは構わねえけど。いったいこれで何するんだ? 猫用のメシでも作るのか? まさか……」
「馬鹿言うな。それは俺が食うんだ」
訝しげな表情すら浮かべられた上でのその言葉に、サンジはなぜナミが自分を雇ったのか、ようやく合点がいったのだった。
「……てめえこそ、馬鹿なことぬかすんじゃねえ。腐っても俺は料理人を目指す人間だ。食い物遊びに加担するわけにはいかねえ」
「遊び? 遊びなわけあるか。仕事だ。ナミから何も聞いてないのか?」
「多少は聞いてたがよ。まさか、小説家先生がこんな愚か者だとは知らなかったぜ」
サンジの頭にふつふつと、道に迷っているときのあの不機嫌すら霞むほどの怒りがこみ上げてきた。
「あんたがどうやって仕事をしようが俺には関係のねえことだ。好きにすりゃいい……けどな、俺は自分の信念は決して曲げねえから、手伝えねえ。あんたはともかく、料理人を志す俺が食い物を冒涜しちゃあ、道理もクソもねえだろう」
「……ヘェ」
感情とは裏腹に静かに発せられたサンジの声に、男はにやりと唇の片端を上げて笑った。
「あまり期待はしちゃいなかったが、どうも、俺の希望通りの人材だな」
「なんだと?」
「折角の人材を逃すのも嫌だからはじめに言っておくが、俺は別に、遊びでそいつをどうこうしようとしてるんじゃねえぜ。俺なりの、道理があってそうすると決めた。食い物を冒涜する気もねえ。俺は料理として、そいつを食うんだ。それが第一話のテーマだ。……缶の横、成分表示を見ろよ」
暫しそのまま男をにらみつけていたサンジだったが、男の笑みは不思議と自信に満ちていて、不本意ではあるがサンジの怒りをゆっくりと鎮めていった。
「成分表示、って……」
主材料:オーシャンフィッシュ、オーシャンフィッシュ煮汁、ターキー、鶏肝臓、ツナ、玄米粉、ニンジン、サーモンミール、乾燥クランベリー、第二リン酸カルシウム、塩化カリウム、塩化ナトリウム、タウリン、炭酸カルシウム、カラゲナン、硫酸亜鉛、硫酸鉄、ビタミンE、硫酸銅、硫酸マンガン、ナイアシン、一硝酸チアミン、カルシウムパントテン酸塩、ヨウ素酸カルシウム、ピリドキシン塩酸塩(ビタミンB6)、リボフラビン、ビタミンA、葉酸、ビタミンD3、ビタミンB12。
目が回るような単語の数々だ。
「肉、魚、野菜、どれも無添加だそうだ。すげえだろ、部位の違いはあるんだろうが、人間の食うものと寸分変わりがない、というより、むしろ勝ってすらいるかもしれない」
「だからどうした」
「統計によれば、このタイプのキャットフードの世界中での生産量は、軽く100万トンに達する。もっと行くかもな。犬となれば、その4、5倍。ちなみに、アフリカにおける米の消費量は2500万トン弱。世界中とは言え、キャットフードのたった25倍だ」
目が回るような単語と、目が回るような数字のオンパレードだ。サンジはただ、呆然と立ち尽くすしかない。
「……自己紹介が遅れた。俺はロロノア・ゾロ。一応、社会派小説ってのを書くのが本業だ」
缶詰を握った左手はただだらんと垂らし、そこに猫が飛びつこうとしているのにも気付かず、サンジはフラフラと差し出されたゾロの手を握り返したのだった。
*
「すげえな。うめえ」
「それを躊躇いなく食うお前の方がすげえよ」
「んなこと言ったって、うめえぞこれ」
「当たり前だろ!」
皿の中身をかっ食らうゾロを前にして、サンジはぶっきらぼうながらも、どこか得意げな顔で腰に手を当てた。それは、内心ほっとしたことへのカモフラージュでもあったのだが。
結局缶詰はシチュー風に煮込んだのだが、肉類・魚類はもとより豊富に放り込まれているものだから、それを生かす形で味付けをした。猫用ゆえに塩味が足りない。資料によれば、尿の調子を整えるとかで、クランベリーなども含まれていた。素材としては、一流ホテルレベルとは到底言えないにしてもなかなかのものだ。
8割は確信のもとで、2割は本能に従って調理したようなもので、サンジとしては少々不満の残る過程ではあったが、ゾロの様子を見る限り結果は充分なようだ。
(けど……こいつの舌、信用できるのかわかんねえんだよなァ)
ナミの言葉もあるし、第一印象の悪さからいろいろと信用できない。方向感覚と同じく、舌の方も音痴でないとは限らないのだ。
「……お、おい」
「あ?」
「俺は、料理人を目指してる」
「もう聞いた」
「己を知り内省を経た上で向上を目指す。どの道にしても同じことだろうが」
「まあな」
「……鈍い奴だな! 一口食わせろって言ってんだこのマリモ頭!」
思わず地団太を踏んだサンジをゾロは不思議そうに眺めたのだが、ここは従うべきと判断したのだろうか、それともサンジを哀れに思ったのだろうか、スプーンでシチューをすくい、それをそのままサンジの口先向かって突き出した。
「……」
じろりとゾロをひとにらみして、サンジはスプーンを奪い取った上でそれをおそるおそる口に運んだ。
「……うめえな」
「だろ」
奇妙な感覚、満足感と、少々の恐ろしさ、なんとなく釈然としない気持ち。
それでもともかく、このシチューは美味い。それを裏付けるかのように、スプーンを取り返したゾロはこれ以上やるまいと勢いよく皿の中身をかっ込んだ。
「しかし、うめえ。これなら明日からのメシも期待できそうだ」
「あ?」
「なんだ、それも聞いてねえのか! お前のアシスタント業には、俺のメシを作るってのも入ってるんだぜ。お前、今日からここに泊まりこむことになってるんだろ?」
「はあ!?」
ナミ……とゾロは眉間に皺を寄せ頭を振ったが、頭が痛むのはサンジのほうだ。
そういえば、ナミが住処を確保してくれるとも言っていた。つい忘れてしまっていたが、そういうことだったのか。
「別に、三食毎作れってわけでもねえ。できねえ用事がありゃ言えばいい。ただ、最終回のテーマは『家庭料理』と決めててな。しかし生憎、俺はそういうのにあまり縁がねえ。連載は一年続くが、お前にはその間ここに泊り込んで俺のメシを作ってもらいたい」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! さっきも言ったが、俺は料理人目指してんだ。お前にゃ悪ィが、これを本業にするつもりはねえし、料理人としての勤め先をこれから探したいとも……」
「だから、それは別に構わねえよ。例えお前が勤め先を見つけたとしても、朝夕晩時間があるとき、休日、それだけでもメシを作ってもらえるだけでいい。そういう契約を結んだんじゃなかったのか? 参ったな」
「いや……」