無条件幸福
高校を卒業して三年、彼と別れて二年。再会したのは、偶然だった。
「かい、と」
言葉にしてしまったのを後悔した。
目の前にいるのは幼馴染であり、初恋の人であり、初めて付き合った相手だった。
黒羽快斗。
二年前のわたしは、彼さえ居れば世界が崩壊してもいいとさえ思っていた。
「青子?」
こちらがかけた声をきっかけに顔をあげた快斗は、一瞬だけ驚いたように目を見瞠ったあと、すぐに「久しぶりだな」と付け加えて笑った。
ずっと変わらないその笑顔に、とても胸が痛む。
「久しぶり、快斗」
「お前こんなところで何してんだよ?」
「いまから……、学校、なの」
「そか」
「うん」
会話の歯切れが悪い。彼もそんな空気を感じ取ったように、一瞬だけ困ったように笑った。
「快斗は?」
「ん?」
「快斗はどうしたの?」
「あぁ。……いまから待ち合わせなんだ」
駅前の広場。快斗は自分の立っている場所を指差して笑う。
付き合ってる、あの人と?
そう聞こうとして、やめた。やめたというよりも、口が戦慄いて言葉を発することができなかったというほうが正しいかもしれない。
そんな臆病な動作が自分じゃないようで、思わず自嘲気味に笑ってしまった。
快斗も昔のように笑っているけど、さぞかし居心地が悪いと感じていることだろう。考えて、またその事に悲しくなる。
快斗と付き合い始めたのは、高校を卒業してすぐだった。
彼が急に、女の人と遊び始めたのが三年生のときで。そのことにどうしようもない程の嫉妬心が自分の中に沸きあがって、快斗のことがすきだったんだと自覚して。
高校を卒業すると同時に彼にそのことを告げた。
すきだと告げたこちらに快斗は「じゃあ、青子はどうしたいの?」と聞かれて「付き合いたい」と言い、それから交際したのが、一年。
すごく楽しかったのをいまでも鮮明に思い出せる。
快斗が笑ってくれて嬉しかった。
快斗が傍で手を握ってくれてドキドキした。
一緒に遠出して、ふたりでいっぱい約束をかわした。視線を交わして、体温を共有した。
そして、別れた。
きっかけはなんだったのだろうか。ある日突然、彼が切り出したのだ。
「ごめん青子」
なにが? と聞くと、彼は見たこともないほど悲壮な色を瞳に浮かべて。
「ごめん、青子」
とまた続けた。
一瞬で直感する、というのを身をもって知った瞬間だった。先を続けられなくても解る。快斗がなにを言おうとしているのか。
聞きたくないと思った。けど、バカみたいなことだけど、希望も捨て切れなかった。
だから「なにが?」と、もう一度、快斗に問いかけた。
「青子となら、忘れられると思ったんだ」
バカみたい。
女の子を振るときに、バカ正直に本当のこと口にして。
こんなときは嘘でもいいから、取り繕いでもいいから。綺麗な嘘をついてよ。そしたら笑って別れてあげられたかもしれないのに。
思ったことと、口からでた言葉は、まったく別だった。
ひどいとか、ずるいとか、なんだか記憶が曖昧だけど、とにかく彼にポツリポツリとそんな言葉をぶつけた。
大声で罵れない自分が悔しかった。……だって、別れを切り出されても、体が、心が、彼を好きだと大暴れをしていたから。
結局は。
どんなにここで別れたくないとせがんでも、彼を引き止められないことを知っていた。だから最後くらいは一番すきな気持ちで名前を呼んで、と頼んでみた。
彼は一瞬だけ躊躇ったあと。
「あおこ」
そう言って、泣き出しそうな顔をした。
耳にこびりつくその声を消さないよう、彼に背中を向けて、そこで別れてから二年。
「青子?」
そんな風に呼ばないで。愛しい気持ちが浮かんで、体を縛ってしまう感覚がわく。
「その、」
「ん?」
「その、忘れられなかった人と、どうなったの?」
感覚を振り払って、そう問いかけた。
彼はきょとんとした顔をしてすぐにはにかんだように笑う。
「あぁ。……あの後、一緒になったよ」
幸せそうな笑顔。取り残されているのは自分だけのような、錯覚。
こんなときに嘘もつけない彼は、やっぱり自分の大好きな人のまま。
「よかったね」
「ああ、……うん」
気まずそうに彼が笑った。
自分の前ではこんな顔しかしない彼。思えば付き合っているときも、あまり表情に豊かさがなかったかもしれないな、なんて。今頃になって気がついた。
「その人のこと考えると、すごく顔が変わるよ、快斗。すごく幸せ?」
指摘すればやはり無意識の行動だったのか、彼は慌てた仕草で右手で顔を覆った。
チラリ、と視線だけがこちらに向く。
「そんな顔してたか?」
「してたよ? ふにゃふにゃした顔」
フフッと笑って教えてあげる。彼はすこしだけ耳を赤くした。照れているのかな。
「あー……まっずいなぁ。そんなに顔に出てたか」
「いい顔するようになったよね、快斗」
快斗は言葉の意味を探るように沈黙を作ったあと、右手を顔から離した。
そのままフワリと、知らない笑顔を作る。
「青子も綺麗になったよ」
「青、子は……今も昔も綺麗よ」
「そだな」
また、知らない笑顔。
そんな顔いつからするようになったの?なんて聞けなかった。答えなんて簡単。
忘れられなかった人の、おかげでしょ?
快斗が伸ばした右手でこちらの頭を数回撫でた。その場所から、彼への気持ちが溢れるように湧き出てくる。
いまもわたしが、貴方を好きじゃないと思ってるの?
まだすきだと言ったら迷惑になるよね。でもこんなにもすきなんだよ。二年なんて、気持ちを殺すには短すぎるよ。
口には出さない言葉が、体からぽろぽろ剥がれていく。そんな感じ。
「子供扱い」
「あ、悪い。ついついお前の頭を見てると」
子供みたいな顔で笑う。すきだった笑顔だ。
「あ、と。……ちょっと待って」
快斗が急に笑顔を引っ込めて、ウエストの位置にかけてある財布と携帯くらいしか入らなさそうな鞄をあさった。中から出てきたのは案の定、黒い携帯電話。
「もしもし? ……どうしたの」
甘い甘い、溶けるような声。受話器の向こう側にいるのは『忘れられない人』だろうか。
「遅いから心配してた。…なにかあったのか?」
雑音に混じって、携帯越しに相手の声が聞こえる。少し低めの、それでもよく耳に通る声。
「ん、怪我とか病気じゃなくて安心した。急いでこなくていいよ。気をつけておいで」
快斗が小さく笑う。うっすらと細めた視線がなにもない場所を見つめた。
「――……大丈夫、ちゃんと待ってるから」
自分には向けてくれなかった表情、声。何もかもがその人のためだけに用意されていたのだろうか。自分に勝ち目なんて、二年前にも、今にも、何一つなかった。
「ごめん青子」
「いいよ。あたしもう行くね、学校遅刻しちゃう」
「あ、悪い引き止めて」
彼が眉をさげて謝罪をする。そんな顔しないで。最後くらいちゃんと笑って欲しい。
「……青子のこと振って、その人のところに行ったくらいなんだから」
快斗がきょとんとした。高校のときと少しも変わらない顔。
「幸せにならなくちゃ、許さないんだから、ね!」
わたし、上手く笑えたかな?
「かい、と」
言葉にしてしまったのを後悔した。
目の前にいるのは幼馴染であり、初恋の人であり、初めて付き合った相手だった。
黒羽快斗。
二年前のわたしは、彼さえ居れば世界が崩壊してもいいとさえ思っていた。
「青子?」
こちらがかけた声をきっかけに顔をあげた快斗は、一瞬だけ驚いたように目を見瞠ったあと、すぐに「久しぶりだな」と付け加えて笑った。
ずっと変わらないその笑顔に、とても胸が痛む。
「久しぶり、快斗」
「お前こんなところで何してんだよ?」
「いまから……、学校、なの」
「そか」
「うん」
会話の歯切れが悪い。彼もそんな空気を感じ取ったように、一瞬だけ困ったように笑った。
「快斗は?」
「ん?」
「快斗はどうしたの?」
「あぁ。……いまから待ち合わせなんだ」
駅前の広場。快斗は自分の立っている場所を指差して笑う。
付き合ってる、あの人と?
そう聞こうとして、やめた。やめたというよりも、口が戦慄いて言葉を発することができなかったというほうが正しいかもしれない。
そんな臆病な動作が自分じゃないようで、思わず自嘲気味に笑ってしまった。
快斗も昔のように笑っているけど、さぞかし居心地が悪いと感じていることだろう。考えて、またその事に悲しくなる。
快斗と付き合い始めたのは、高校を卒業してすぐだった。
彼が急に、女の人と遊び始めたのが三年生のときで。そのことにどうしようもない程の嫉妬心が自分の中に沸きあがって、快斗のことがすきだったんだと自覚して。
高校を卒業すると同時に彼にそのことを告げた。
すきだと告げたこちらに快斗は「じゃあ、青子はどうしたいの?」と聞かれて「付き合いたい」と言い、それから交際したのが、一年。
すごく楽しかったのをいまでも鮮明に思い出せる。
快斗が笑ってくれて嬉しかった。
快斗が傍で手を握ってくれてドキドキした。
一緒に遠出して、ふたりでいっぱい約束をかわした。視線を交わして、体温を共有した。
そして、別れた。
きっかけはなんだったのだろうか。ある日突然、彼が切り出したのだ。
「ごめん青子」
なにが? と聞くと、彼は見たこともないほど悲壮な色を瞳に浮かべて。
「ごめん、青子」
とまた続けた。
一瞬で直感する、というのを身をもって知った瞬間だった。先を続けられなくても解る。快斗がなにを言おうとしているのか。
聞きたくないと思った。けど、バカみたいなことだけど、希望も捨て切れなかった。
だから「なにが?」と、もう一度、快斗に問いかけた。
「青子となら、忘れられると思ったんだ」
バカみたい。
女の子を振るときに、バカ正直に本当のこと口にして。
こんなときは嘘でもいいから、取り繕いでもいいから。綺麗な嘘をついてよ。そしたら笑って別れてあげられたかもしれないのに。
思ったことと、口からでた言葉は、まったく別だった。
ひどいとか、ずるいとか、なんだか記憶が曖昧だけど、とにかく彼にポツリポツリとそんな言葉をぶつけた。
大声で罵れない自分が悔しかった。……だって、別れを切り出されても、体が、心が、彼を好きだと大暴れをしていたから。
結局は。
どんなにここで別れたくないとせがんでも、彼を引き止められないことを知っていた。だから最後くらいは一番すきな気持ちで名前を呼んで、と頼んでみた。
彼は一瞬だけ躊躇ったあと。
「あおこ」
そう言って、泣き出しそうな顔をした。
耳にこびりつくその声を消さないよう、彼に背中を向けて、そこで別れてから二年。
「青子?」
そんな風に呼ばないで。愛しい気持ちが浮かんで、体を縛ってしまう感覚がわく。
「その、」
「ん?」
「その、忘れられなかった人と、どうなったの?」
感覚を振り払って、そう問いかけた。
彼はきょとんとした顔をしてすぐにはにかんだように笑う。
「あぁ。……あの後、一緒になったよ」
幸せそうな笑顔。取り残されているのは自分だけのような、錯覚。
こんなときに嘘もつけない彼は、やっぱり自分の大好きな人のまま。
「よかったね」
「ああ、……うん」
気まずそうに彼が笑った。
自分の前ではこんな顔しかしない彼。思えば付き合っているときも、あまり表情に豊かさがなかったかもしれないな、なんて。今頃になって気がついた。
「その人のこと考えると、すごく顔が変わるよ、快斗。すごく幸せ?」
指摘すればやはり無意識の行動だったのか、彼は慌てた仕草で右手で顔を覆った。
チラリ、と視線だけがこちらに向く。
「そんな顔してたか?」
「してたよ? ふにゃふにゃした顔」
フフッと笑って教えてあげる。彼はすこしだけ耳を赤くした。照れているのかな。
「あー……まっずいなぁ。そんなに顔に出てたか」
「いい顔するようになったよね、快斗」
快斗は言葉の意味を探るように沈黙を作ったあと、右手を顔から離した。
そのままフワリと、知らない笑顔を作る。
「青子も綺麗になったよ」
「青、子は……今も昔も綺麗よ」
「そだな」
また、知らない笑顔。
そんな顔いつからするようになったの?なんて聞けなかった。答えなんて簡単。
忘れられなかった人の、おかげでしょ?
快斗が伸ばした右手でこちらの頭を数回撫でた。その場所から、彼への気持ちが溢れるように湧き出てくる。
いまもわたしが、貴方を好きじゃないと思ってるの?
まだすきだと言ったら迷惑になるよね。でもこんなにもすきなんだよ。二年なんて、気持ちを殺すには短すぎるよ。
口には出さない言葉が、体からぽろぽろ剥がれていく。そんな感じ。
「子供扱い」
「あ、悪い。ついついお前の頭を見てると」
子供みたいな顔で笑う。すきだった笑顔だ。
「あ、と。……ちょっと待って」
快斗が急に笑顔を引っ込めて、ウエストの位置にかけてある財布と携帯くらいしか入らなさそうな鞄をあさった。中から出てきたのは案の定、黒い携帯電話。
「もしもし? ……どうしたの」
甘い甘い、溶けるような声。受話器の向こう側にいるのは『忘れられない人』だろうか。
「遅いから心配してた。…なにかあったのか?」
雑音に混じって、携帯越しに相手の声が聞こえる。少し低めの、それでもよく耳に通る声。
「ん、怪我とか病気じゃなくて安心した。急いでこなくていいよ。気をつけておいで」
快斗が小さく笑う。うっすらと細めた視線がなにもない場所を見つめた。
「――……大丈夫、ちゃんと待ってるから」
自分には向けてくれなかった表情、声。何もかもがその人のためだけに用意されていたのだろうか。自分に勝ち目なんて、二年前にも、今にも、何一つなかった。
「ごめん青子」
「いいよ。あたしもう行くね、学校遅刻しちゃう」
「あ、悪い引き止めて」
彼が眉をさげて謝罪をする。そんな顔しないで。最後くらいちゃんと笑って欲しい。
「……青子のこと振って、その人のところに行ったくらいなんだから」
快斗がきょとんとした。高校のときと少しも変わらない顔。
「幸せにならなくちゃ、許さないんだから、ね!」
わたし、上手く笑えたかな?