オレンジの日々
父親の転勤で都心から自然の溢れる郊外へと引っ越したのは、修兵が10歳になる春だった。田舎暮らしなんて、と、その町に着くまでは半ば絶望的な気分でいた筈なのに、新しい部屋から新緑の眩しい山々を見た瞬間にそんな思いはどこかに吹き飛んでしまった。
修兵は物心つく頃から人でないものを見る事ができた。しかし当時は人とそれの区別をつける事ができず、自分にしか見えないという事も理解できなかった。どうしても誰かに分かってもらいたくて必死に訴えたがそれも虚しく、クラスメイト達からは孤立し、両親からは可哀想なものを見るような目をされた。なので修兵はいつも一人でいた。
その日も修兵は一人だった。夏休みも中盤に差し掛かった午後、修兵は以前から気になっていた小高い丘に向かった。それは町の中心から少し外れた所にあり、埋め尽くす木々によって薄暗く不気味な印象を与えた。唯一細い山道のようなものがあるが、荒れ果てていて獣道同然だった。
修兵は意を決して山道に足を踏み入れた。真夏の午後とは思えないほどひんやりとした空気が修兵の頬を逆撫でる。構わず仄暗い道を暫く進むと急激に視界が開けて、その眩しさに思わず目を瞑った。
目を開いて、修兵は感嘆の息を漏らした。木々に囲まれた小さな草原は眩しい太陽を反射して輝き、そよぐ風はどこまでも穏やかだった。見上げれば一面に青空が広がり、修兵はここが頂上なのだと知った。
辺りを見回していると、ふと、木陰に大きな石があった。岩と言った方が良いかもしれない。そこに人影を発見して、修兵は反射的に歩み寄っていた。
その人は岩に腰掛けて、眼下に広がる町をただ眺めていた。紺色の着物に長い黒髪と、横からでも整っていると分かる顔立ちは、そのままでは性別を判断できなかった。
「あの、」
修兵は遠慮がちに声を掛けた。その人はちらりとこちらを見やる。合わされたその瞳に修兵は身動きがとれなくなった。吸い込まれる様な錯覚に心拍数が急に上昇する。しかしその人はつまらなそうに修兵を一瞥して顔を背けたので、我に返って言葉を続けた。
「何してるの?」
答えはない。
「ねえ、お兄さん?お姉さん?」
今度もやはり返事がない。しかしあからさまに不機嫌そうな顔をした。修兵はそれが何だか可笑しくて、懲りずに言葉を投げ掛けた。
「ぼく、檜佐木修兵。お兄さん…お姉さん?は?」
すると大袈裟な溜め息が聞こえ、その人は呆れた表情で修兵に顔を向けた。
「僕は男だ」
ようやく聞く事ができた声に嬉しくて顔を綻ばせると、彼は再び溜め息を吐いて視線を景色へと戻した。
「となり、座ってもいい?」
「好きにすれば」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、彼は僅かに腰を浮かせて修兵の座る空間を広げた。修兵は少しよじ登ってその空間に腰を下ろすと、高くなった分町がよく見渡せた。改めて名前を聞いたら「無い」とあっさり言うので「お兄さん」と呼ぶしかなかったが、本当に兄ができたみたいで少し嬉しくなった。
それから修兵は彼にとりとめもなく話をした。クラスで飼っているインコの事、前住んでいた街の事、両親が喧嘩ばかりしている事。どうしてそんな話をする気になったのか、修兵自身も分からない。彼はつまらなそうな顔をしていながらも、「へえ、良かったね」「ふうん、そうなんだ」などと相槌や返事を返してくれた。修兵は彼の纏う空気がひどく心地好く感じた。思えば人とこんなにまともな会話をしたのは実に久しぶりだった。
気付けば空は薄く茜に色づいていた。そろそろ帰らなければならない。
「お兄さんも、一緒に帰ろう」
名残惜しさから発した言葉に、彼は静かに首を横に振った。
「僕はここから離れられないんだ」
「どうして?」
「どうしても」
それ以上訊く事への拒絶が含まれている感じがして、修兵は言葉をつぐんだ。すると彼は仕方がないといった風に溜め息を吐いて言った。
「また、来ればいいでしょ」
予想外の言葉に修兵は嬉しくなって、途端に岩から元気良く飛び降りた。
「絶対だよ!約束ね!」
はいはい、と呆れた様に言う彼は確かに微笑んでいた。その笑顔は、射し込む西日よりもずっと眩しく修兵の胸に焼き付いていた。
それ以来、修兵はほとんど毎日あの丘へ向かった。彼はいつも不機嫌そうに修兵を迎え、帰りは決まって少し儚げな笑顔を見せた。
学校が始まっても、週に二回は彼に会いに行った。ほとんど修兵が一方的に話す内容は、とてもくだらなかったり、物凄く真剣だったりした。彼の事も知りたかったが、彼は自分の事はあまり話したがらなかったので、無理に聞き出す事はしなかった。会話が無くても、彼と空を眺めているだけで満足だった。
時間が経つ程に、彼は色んな表情を見せる様になった。新しい表情を見つける度に修兵は何となく幸せな気持ちになった。冬になると益々空気が澄んで、日が落ちれば満天に輝く星空が広がった。彼は相変わらず同じ格好をしていた。寒くないのかと問うと、人間と一緒にするなとあっさり告げられた。やっぱりそうだったのかとすんなり納得しつつ、それでも葉を落とした木の下に佇んでいる彼がとても寒そうで、修兵は自分のマフラーを彼の首に掛けた。オレンジ色なんて似合わないかと心配したが、明るい色は彼の整った顔をより引き立たせた。本人も満更ではない様子だったので、修兵はそれを彼にあげる事にした。無くしたと言ったら両親に怒られた事を、修兵は今でも覚えている。
年が明けて二度目の春を迎えようとした矢先、修兵は突然また引っ越す事になった。両親が正式に離婚を決めたためだった。
その旨を、修兵は泣きながら彼に伝えた。彼はそれを静かに聞きながら、修兵の頭をそっと撫でた。そういう事をするのに極端に慣れていない風なぎこちない手つきだったが、その優しさは痛い程修兵に伝わった。絶対にまた戻ってくる、何度もそう力強く言って、彼のマフラーにそっと手をかけてから、修兵は意を決してその場所を後にした。最後に振り返った彼は、やはりいつもと同じ様に、儚げな笑顔で修兵を見送っていた。
引っ越した当初は何度となく彼の事を思い出したが、次第にあれは夢だった様な気がしてきて、思い出す回数も減っていった。その頃には世渡りもだいぶ上手くできるようになり、友達に「変なの」と言われても「だよな」と笑って誤魔化せるようになった。人とそうでないものの区別もついてきた。おかげで孤立する事もなく、また離婚してから母は人が変わった様に穏やかになり、家庭環境も随分と良くなった。修兵は益々思い出す事が無くなり、友達と馬鹿な事をして遊んだり、ギターを弾いたりしながら青春時代を過ごしていった。