オレンジの日々
大学に入って最初の夏だった。
大事な人を失って、突然思い出したのはあの丘に佇む男の事だった。
自己満足で身勝手な動機である事は百も承知していたが、それでも会いたいという気持ちを抑え切れず、修兵は財布と携帯だけを手に近くの駅へと向かった。
電車を乗り継ぎ、半日かかってようやく目的の駅へと辿り着いた。駅舎を出て広がるその景色は当時と何も変わっていなかったが、あの頃よりもだいぶ静かに思えた。子供達で溢れていた川辺も、今はポツリポツリと釣りをする姿が見受けられるだけだ。
あの丘は駅から結構離れている。幼い頃の、たった一年しか居なかった記憶はとても曖昧で、数少ない通行人に道を尋ねながらようやく辿り着いた頃には既に日も傾き初めていた。汗で背中に張り付くシャツが気持ち悪かったが、修兵は構わず山道に足を踏み入れた。
山道は相変わらず鬱蒼としていて、濃い草木の匂いと頬を撫でる冷たい空気に強烈な懐かしさが込み上げた。言い様のない高揚感に自然と歩みが早くなる。もう居ないという可能性も十分ある筈なのに、どこか確信めいたものが修兵を動かしていた。
急に視界が開けて眩しい光の射す丘の頂上に、果たして彼は居た。
初めて彼を見た時と何ら変わりなくあの岩に腰掛けて、移り行く雲をただその瞳に映していた。
また来たの?現れた修兵に驚きもせずにそう言い放った彼はやはり不機嫌そうで、修兵は泣きたくなる衝動を必死に堪えた。
「お久しぶりです」
律儀に頭を下げる修兵に彼が苦笑を漏らすのが分かる。まあ座ったら、と彼は自分の隣を示して言った。
岩に登ろうとして、修兵は思わず赤面した。当時は自分もまだ小さかったから良かったが、隣に座るとかなりの至近距離になってしまう。困った様に立ち尽くす修兵を見て全てを察したらしい彼が思い切り吹き出したので、修兵は自棄になって乱暴に彼の隣へ腰を下ろした。色気づいちゃって、と揶揄する彼に、うるせえよ、とだけ呟いて顔を背ける。約十年振りに見た彼は思っていたより更に綺麗で、早まる心臓の鼓動を抑える事ができない。すると突然ひやりとしたものが修兵の額に触れた。それは紛れもなく彼の掌だった。
「ずいぶん大きくなっちゃったね」
そう言葉を発した彼を見て、修兵は途端に思い切り胸が締め付けられる様な感覚に陥った。あの頃とは反対に、背丈を追い抜いてしまった修兵を軽く見上げる彼は穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥に深い悲しみが潜んでいる事に、修兵は大人になってようやく気付いた。彼の笑顔がどこか儚く感じていたのはこれが原因だったのかと思い至るよりも早く、修兵は彼の着物を縋るように掴んでいた。身を寄せて彼の肩に頭を預けると、彼は何も言わずにその頭を撫でた。あの時と同じ、少しぎこちない手つきだった。
「…ごめん」
それだけ言うのが精一杯だった。しかし彼は全て分かっているとでも言うように軽く頭を左右に振った。
「僕の事なんて、忘れていてくれた方が良かったのに」
その言葉にそっと頭を上げれば、彼は怒っていると言うより悔しそうに眉根を寄せていた。その真意を修兵が図りかねていると、ふと、彼の背後に見覚えのある物体が映った。それは紛れもなく、昔修兵があげたオレンジ色のマフラーだった。正直に驚いて彼に視線を向ければ、彼は「気付かれちゃったか」とでも言う風に肩を竦めてみせたが、修兵は構わず彼を抱き締めて、衝動の儘に唇を彼のそれに押し当てていた。唇を離せば彼は珍しく驚いたように目を開いていた。そんな顔を見たのは俺が彼の首にマフラーをかけた時だけだったなとぼんやり思い出しながら、二度目のくちづけはどちらからともなく自然に触れ合っていた。
「…ひとつ、訊いていいか」
彼の身体を抱き締めたまま、修兵は呟いた。
「お前は一体、誰を待っているんだ?」
途端に彼の身体が強張った。見開かれた瞳は虚空を映したまま動かない。
「…俺が、お前を、」
解き放ってやりたい。
修兵は彼の項に唇を寄せると、白い肌に強く吸いついた。言葉を失ったままでいる彼が修兵の肩を強く掴む。その力があまりにも強くて、爪がシャツの下の肌にまで食い込んだ。
「…や、めろ」
絞り出すような彼の声は震えていた。尚も項にくちづけをすれば身体が小刻みに震えだし、鎖骨をなぞって着物の合わせ目に指を這わせた瞬間、
「やめろ!」
凄まじい気が爆発的に彼の身体から溢れ出た。思わずその身体を放すと彼は宙に浮き、苦しそうに胸元を押さえている。思わず手を伸ばせば「駄目だ、修兵」と払いのけられ、彼の足元に白い皮膚のようなものが貼りついた。それは上半身にも広がってゆき、みるみるうちにその姿を覆っていった。修兵はそれをどうにか止めようとしたが、彼の発する気に阻まれて近づく事すらままならない。
ついに顔の半分が白い仮面のようなもので覆われた時、修兵と彼の間に黒い影が舞い降りた。それは人の姿をしていた。髪の毛一本生えていない、漆黒の着物を纏った男だった。それを見た瞬間、彼の白い仮面の進行が止まった。
「……どうして、」
驚愕に見開かれた目で、彼はその剃髪の男を凝視して呟いた。男は修兵に背を向けていて、その表情を窺う事ができない。
「弓親」
男はゆっくりと彼に歩み寄ると、はっきりとそう呼び掛けた。何だやっぱり名前あるんじゃねえか等と、修兵の頭に過ぎるのはそんな事だけだった。
男に名を呼ばれた彼は途端に顔を伏せて崩れ落ちた。泣いているような気がした。何故なら崩れ落ちる寸前の彼が、あまりにも安堵したように顔を歪めていたからだった。
剃髪の男はそんな彼を暫し見下ろしてから、腰に携えられていた刀をすらりと抜いた。光を反射する刀身がやけに眩しく見える。彼は顔を上げるとその切先を見つめた。静かな目だった。待ちわびたように彼が目を閉じたのを合図に、剃髪の男がゆっくりと彼に刀を振り下ろした。切り口から、桜の花びらが散るように彼の姿が消えてゆく。季節外れの桜吹雪が辺りを包んだ。
ごめんね。修兵を振り返った彼の口ははっきりとそう動いていたが、その表情はこちらが泣きたくなる程に穏やかだった。何馬鹿な事言ってんだ、それはこっちの台詞だろう。次々と浮かぶ言葉はついに修兵の口から漏れる事はなく、彼の姿は塵となり、やがて完全に空気と同化していった。
その様子を真っ直ぐに見つめていた剃髪の男は、消えてしまった彼の残像に手を伸ばしてその空気を抱き込むと、崩れる様にその場に両膝をついて背中を丸めた。
「悪い、弓親」
「悪い」
何度となく吐き出される謝罪の言葉は、やりきれない思いに震えていた。それが一体どんな思いだったのか、修兵には見当をつける事さえできない。