対角線上の空
第一印象はまさに、いまそこで強姦にあってきました、という感じだった。
ハワードから見えるのは後ろ姿だけだが、シャツもズボンもあちこち破れて汚れていて身体は泥だらけ、そして髪もあれだけ乱れていたらだれでもそう思うだろう。
なので正直、なんと声をかけるかひどく迷った。もし本当にそんな体験をしていまそこにいるのだとしたら、へたに声をかけると怯えさせてしまうと思ったからだ。
しかし、ハワードがそんな迷いで言葉を飲み込んでいるあいだに汚れきった背中がおおきく揺れて、威勢よく悪態をつく。
ああ、どうやら心配は杞憂だったようだとホッとして、ハワードはもう一度その背中を見つめた。
見た目はやはりぼろぼろだ。頭になにかついているような気がして眼を凝らすと、二匹もねずみがかじりついていてさらに驚いた。不思議な人だなとは常々思っていたが、ますます自分の常識を超えている。どこをどうすれば頭にねずみが二匹もくっつくのだ。
泥がついてあちこち破れてしまっているシャツ越しに想像できる体格も、男性で軍属しているにしては頼りないほどに華奢で、後ろ頭など子どものように丸い。
数年前に初めて彼と対面したときと、その姿はなにひとつ変わっていなかった。しかしそれを気味が悪いと思うこともなく、むしろ故郷に帰ってきたような懐かしさを覚える。まあ、彼こそが祖国なのだから変な話ではないのだが、人の形をして目の前で息をしているだけに不思議な気分だ。
なんだかいろいろと考えているうちに、彼がゆっくりと立ち上がった。あんな姿で町に行かせるわけにはいかないと慌てて息を吸い込み、この国にきて久しぶりに祖国の名前を呼ぶ。
肩をびくつかせてからゆっくりとこちらを振り返った彼の顔は、数年ぶりに見たにも関わらずやはりあのときとおなじ童顔だった。
「とりあえずシャワー使ってくださいね」
「あ、ああ」
「お友達のねずみはちゃんと放してきてくれましたかあ」
「お、おう」
あ、友達っていうのは否定しないんだと心の中だけで思いつつ、後ろからついてくるイギリスをシャワールームまで案内する。
スパイという任務についている男がひとりで住んでいる部屋だ。広さも設備も、生活用品ですら最低限の物しか揃えていない殺風景さはどうしても隠しきれないと思う。けれど大切な物を任務先の部屋に揃える虚しさを、ハワードはだれよりも解っているつもりだった。
事情が変われば飛び出していかなければならない部屋、そして国。大切な物で部屋を彩ろうと、大切な仲間をこの国でつくろうと、事情が変わればすべて捨てなければならない。
それを繰り返して、いつしかハワードは大切なモノを増やさない生き方をする癖がついていた。
部屋の異常なほどの殺風景さに気付いていないのか、それともそんな野暮なことを聞く気すらないのか、イギリスはハワードの私生活にはなにひとつ触れずに案内されるままシャワールームの中に姿を消す。
「服は処分してしまうんで、全部まとめて置いておいてくださいねえ」
「ああ」
「あと、新しいスーツも買ってくるんで、サイズ教えてください」
「え、えーと」
「ついでに下着のサイズも!」
「え、ええと、え、ええっ?」
「変態な思考があるとかじゃなく、下着も買ってくるんでお願いしまーす」
「わ、わかってるよ、そんなこと!」
この人絶対わかってなかっただろうなあと苦笑いを浮かべつつ、ごそごそと服を脱ぐ音にまぎれて聞こえてくる服のサイズを頭の中に叩き込む。そしてスーツやシャツ、下着を買う店をざっと考えて、ハワードは曇りガラスの向こうに声をかけた。
「タオルとバスローブは置いてますから、使ってくださいね。あと、食事もなにか買ってきますんで、待っててください」
「んー」
「眠いならベッド使っていいから寝ててください。じゃあ、行ってきますからー」
「ああ、行ってらっしゃい。悪いな」
「いいえー」
申し訳なさそうなイギリスの声に軽く返事をして、踵を返す。うっかりと緩んでしまった頬は慌てて両手で押さえておいた。
いってらっしゃいなんて言われたのは久しぶりだった。故郷を任務で離れてから、ずっとさびしいひとり暮らしだったのだ。だれかが家にいて出かけるときに「いってらっしゃい」と言われる。その幸せを噛みしめて、ハワードは跳ねるような足取りで自分の部屋を出た。
必要な物をすべてそろえて自宅に戻るまで一時間ほどかかってしまった。おなかをすかせているんじゃないかと慌てて帰ってきたのだが、ハワードの予想を裏切るように室内はシンと静まりかえっている。
そのことに首をかしげつつ、玄関の扉を閉めて「イギリスさーん」と声をかけてみたが、やはり返答はない。
もしかして、この一時間のあいだに追手が来て連れていかれてしまったか。
一瞬そんなことを考えて、ヒヤリと冷たい感触が背筋を走った。けれど、室内のようすをさっと見まわしてすぐにそんな考えを捨てる。
イギリスは無力な一般市民ではない。どういう生き方をしてきたのかは知らないが、ハワードが知る限り以上の時間を軍属として生きてきたはずだ。そんな彼が、突然押し入ってこられたとしても完全に無抵抗で連れていかれることはないだろう。
まだシャワーを浴びているのだろうかと耳を澄ませるが水音は聞こえない。ほかの可能性を考えて、ハワードは持っていた袋をソファーの上に置きベッドルームへと向かった。
やはりというかなんというか、探し人はそこにいた。
よほど疲れているのかハワードが近づいても呼吸が乱れない。それほど深い眠りについているのだろう。
できるだけ足音を潜ませて、ベッドに近づきすぎない位置で立ち止まる。不用意な音をたてないように注意しながらシーツに包まるようにして眠っているイギリスの顔を覗き込んで、ふっと笑ってしまった。
自分よりもずいぶんと長い時間を生きているとは思えないほどの、幼い子どものような寝顔だ。
もうすこししっかりと寝顔を見たいと一歩足を踏み出す。しかし自分に近づく者の気配をすぐに察したのか、イギリスの眉がぎゅっと寄るのを見て反射的に足を止めた。
まるで敵地に潜入したときのような気持ちで息を殺し、自分という存在をこの部屋から消す。そのままじっとしていると、うう、とうめき声をあげたイギリスの呼吸がまた深いものにおもどった。
もうすこし寝顔を良く見てみたくなって、一歩足を踏み出す。しかしそこで、イギリスの眉がぎゅっと寄るのが見えた。反射的に足を止めて息を殺す。
そのままじっとしていると、イギリスはまた深い呼吸にもどった。
どうやら起こさずにすんだらしい。ホッとして、いま立っている場所で肩のちからを抜いた。
さすがは軍人だ。きちんとしたパーソナルスペースがあって、そこまで侵入された瞬間に眼が覚めるように訓練されているのだろう。
これは近づくのは無理そうだ。必然的に今日の寝床も失ったことになるが、ソファーで眠れば問題ない。疲れているようだしたくさん眠らせてあげようと、ハワードは寝室を出る。
けっきょくその夜イギリスは一度も眼を覚まさなかった。