対角線上の空
早朝六時きっかりにハワードは眼を覚ました。窓の外から聞こえる小鳥のさえずりをぼんやりと聞きながら、どうして自分はソファーで寝ているのだろうと考える。
「……ああ、そっか」
起きぬけなせいでガラガラにかすれた声でぽつりとつぶやいた。流すように視線をベッドルームに向ける。
いまはあそこでイギリスが眠っているのだ。物音ひとつしないのでまだ眠っているのだろう。昨日は夕食もとらずに眠ったので、起きたらきっとおなかをすかせているはずだ。彼が起きる前に朝食を作っておいてあげようと、ハワードはソファーから立ちあがった。
顔を洗って身支度を整えて朝食を作りだすと、その音で目が覚めたのかベッドルームからイギリスが出てきた。彼はひどくバツの悪そうな表情を浮かべてハワードに「おはよう」とちいさな声で挨拶をしたきり、黙りこんでしまう。
その表情からベッドをとってしまったことや、買ってくると約束していた夕食をダメにしてしまったことへの罪悪感が透けて見える。怒られることを覚悟するちいさな子どもみたいなその姿に、ハワードは苦笑いを浮かべてしまった。
「おはようございます。よっぽど疲れてたんですねえ。よく寝てましたよー」
「あ、ああ。なんか、そんな気はなかったんだけど……」
「無理は良くないですよ。朝ごはん、昨日の夕食の分まわしちゃってもいいですか?」
「もちろんだ」
はっきりと言い切って、イギリスはきゅっと唇を引き結んでから付け加えた。
「ベッドも、俺、占領しちゃったみたいで、その」
「いいんですよお。そんなこと、気にしないでください。そんなことよりほらほら、ご飯食べちゃいましょうよ。顔洗って来てください」
うん、と子どもみたいにうなずいて、イギリスは顔を洗いにいく。その背中を、買って来ていた洋服が入っている紙袋を持って追いかけた。
「イギリスさんイギリスさん」
「へ?」
「これ、新しいスーツです。一式入ってますから、着ちゃってください」
「あ、わ、悪いな。ほんと、なにからなにまで」
「いいんですよー、そんなの。脱いだバスローブは適当に置いといてくださいね」
「ああ」
持っている紙袋をイギリスに手渡して、きちんとうなずいたのを確認してからハワードはキッチンへ戻った。
しばらくするとジャケットとネクタイ以外をきちんと着込んだイギリスがシャワールームから出てきた。そしてハワードを見て、ほんのすこし頬を赤くする。
「血色、だいぶ良くなりましたねえ」
「そ、そうか?」
「はい、昨日とは別人ですよー」
触っても血色などわからなだろうに、イギリスは神経質にぺたぺたと自分の頬をこする。自分が納得いくまでその動作を繰り返してから、彼はきゅっと表情を引き締めてハワードへと視線をもどした。
もしかして、なれなれしく体調のことにまでくちを出したことに怒っているのだろうか。こちらに向けられる視線があまりに強いのでふとそんなことを考えたが、すぐに違うと気がついた。
彼はテレているのだ。もしくは、恥ずかしがっている。なにか根拠があるわけではないが、なんとなく直観的にそう思う。そして、それが間違いではないという確信もあった。
軍人としての彼、子どものような彼、こうしてすぐにテレてしまう彼。たった一日たらずしか傍にいないのにいろんな表情が見れて、その人間らしさをひどく愛しいと思う。
朝からなんだかほんわりするなあ、なんてイギリスが聞いたら眉をひそめそうなことを思いつつ、気持ちを切り替えて声をだす。
「ほらほら、朝ごはんにしましょう、イギリスさん」
「え、あ、ああ、そうだな」
声をかけないと動きそうもないイギリスを連れてダイニング兼リビングにしている部屋にもどり、テーブルに朝食を広げる。昨日の夕飯のつもりで買ってきていたピザと、即興で作ったサラダとフルーツ数種だが、朝なのだから高カロリーなくらいだろう。
近況を報告しながら食事を済ませ、一息ついてからイギリスをソファーに座らせた。なにをする気かと身体を固まらせて聞くので「髪を整えるんですよお」と告げれば、イギリスはあからさまに嫌そうな表情をして「……髪なんていいだろ、べつに」なんて唇を尖らせて言う。
なんだか思春期の男の子のようだなあと微笑ましく思いながら「まあまあ」となだめて背後に回り、髪の中に指を通す。イギリスもこれ以上はなにを言っても無駄だと感じたのか眼を閉じてされるがままの状態だ。
これ幸いと、目の前に置いた鏡をのぞきながらイギリスの髪を撫でつけるように梳いていく。
跳ねているところを整えるだけでいいかとも思ったが、どうせならイタリア男っぽくしたい。イギリスのためでもあり、どんな風に変わるか見てみたいという自分の好奇心もある。
なによりもまずこの童顔をどうにかすべきだろうか。ふむと考えて、横に流してみようかと髪を流してみる。と、なんだか学生のようになってしまったのでやめた。
うむむと考え込んで、今度は後ろに流すように撫でつけてみる。すると、奇跡の童顔がすこし大人っぽくなった。
「おお、いいですね、イギリスさん!」
「そ、そうか?」
いままで眼を閉じていたイギリスがハワードの声に反応するように瞼をあげ、興味しんしんとばかりに瞳を輝かせて目の前の鏡を覗き込む。さっきは思春期の男の子だったのに、今度はちいさな子どもみたいだ。
けれどここで笑ってしまうと鏡越しにイギリスにも見えてしまう。するときっと怒らせてしまうだろうと弧を描きそうになる唇になんとかちからを込めて「こほん」と咳をすることでごまかした。
「はい。じゃあ髪型はこうしてー」
手のひらにムースをなじませて、髪をかきあげるようにして後ろに流す。猫っ毛なので癖をつけるのが大変かとも思ったが、意外とすんなり髪型は整った。
「あとはこれこれ!」
「な、なんだこれ……」
「ほら、イタリアさんたちこういうのついてるじゃないですか!」
あの髪のあいだから生えている、やけに特徴的なくるんとした一本髪だ。こっそりと用意しておいた疑似くるんをイギリスの髪にもつけてみたのだが、彼は不服そうに唇を尖らせて貼りつけるために使ったテープをカリカリとひっかいている。
「……取りますか?」
違和感があるのかなんなのか、いつまでも爪でカリカリしているので声をかけてみた。けれどイギリスはぎゅっと眉をしかめて鏡越しにハワードを見やり、ハアと溜息をついてからふるふると首を振る。
「いいよ。おまえがこうするならこれが正解なんだろ」
「あー……、えへへー、はいー」
くるんはおもしろいから付けたなどと言えない雰囲気に、ハワードは笑ってごまかした。
お互いに数瞬黙りこんだのでこれで身なりは整ったと思ったのか、イギリスはネクタイを締めてジャケットを羽織る。そしてしっかりとした表情でハワードを見あげた。
「これでいいのか?」
「はい、どこから見てもイタリア男ですよ!」
ハワードの言葉に、イギリスは苦笑いを浮かべる。
「嬉しくねえけど、国境越えるまでの辛抱だな」
「はは、そうですねえ」
イギリスはふっと苦笑いを納めて、ゆっくりと立ち上がる。もう動きだす気配に、ハワードは用意していた紙幣を数枚差し出した。