対角線上の空
「国境まですこしあります。使ってください」
「でも……」
「持ってることに越したことありませんよ、ね」
「そう、だな。うん。ありがとう」
ふわりと浮かんだ笑顔に、ハワードはぱちりとまばたきをしてしまった。いろいろな表情を見てきたが、そのどれでもない初めてみる柔らかい頬笑みだ。そんなぽわぽわした表情のままイギリスはハワードから紙幣を受け取り、それを宝物みたいにポケットにしまいこんで、彼はほんのりと目元を染めながらこちらを見あげた。
「あ、あのな、その、ハワード」
「はい」
「助かった。ありがとう。おまえとまた、本国で逢える日を楽しみにしてる」
「は、はい!」
思わず敬礼してしまうと、イギリスはふふと笑って肩をすくめた。そして「そういう堅苦しいのはいいよ」と首を振る。
「じゃあ、行くな」
「はい、お気をつけて」
「うん」
イギリスは一度うなずいて踵を返し、玄関に向かって歩き出した。後ろを追いかけて行こうとすると、見送らなくても大丈夫だと断られてしまう。そう言われて追いかけることもできず、リビングにつったったまま玄関の扉が閉まる音を聞く。そして足音もゆっくりと離れていった。
ひとりにもどった部屋を見回すと、まだイギリスの痕跡があるような不思議な気分になる。自宅に人を招いたのが久しぶりすぎて、もしかするとさみしいと思っているのかもしれない。 なんだか子どもみたいだなと自分のことながら恥ずかしくなって、ハワードは右手で後頭部をかいた。
「あ、そうだそうだ」
本国にイギリスを国境まで向かわせたことを連絡しておこう。そうすればそこで自国の人間が彼をスムーズに回収することができる。その方が彼への危険もかなり回避できるはずだ。
そうと決まればとハワードはさっそく本国へと連絡を取った。そしてすぐに、迎えを出したという報告も来た。
これで完璧だ、と思ったその日の夜、またイギリスがもどってくるのはさすがのハワードも予想できなかったが。
「ちょ、ちょっとイギリスさん、どうしたんですか!」
「またドイツに見つかった! あいつほんとにうぜえ!」
昨日とまったくおなじようにドロドロに汚れたイギリスにシャワーを貸して食事をさせて、ゆっくりと話を聞ける状態になってから事情を聞くとイギリスは忌々しげにそう言った。
「この恰好で町にいただけなのに、あいつよほど鼻が利くのかもしれねえ」
「そ、そうなんですかねえ」
さすがに『ドイツ』と呼ばれる人物の嗅覚についての情報はなく、無難にうなずくだけにしておく。
「でも、スーツだめになっちゃいましたね。明日また買ってきます」
「あっ」
ハワードの視線を追うようにしてイギリスもゴミ箱へと視線を向け、いままで歯ぎしりでもしそうなほど怒っていたのが嘘のように、目に見えてしゅんと肩を落とす。
「わ、悪かった。せっかく買ってきてくれたのに、」
「いえいえ、それはいいんですよー」
「それにまた、こうして世話にもなってるし」
「そんなこと気にしないでください。ほらほら、それよりも今日は寝ちゃいましょ。明日も朝早くから移動するんでしょう?」
「そのつもりだ」
「じゃあ、ベッド使っちゃってください」
「え、で、でもっ」
「俺はソファーでも全然平気なんで。ほらあれ、ソファーベッドですしね」
「そ、そうなのか?」
「はい」
イギリスはそれでも気難しげにバスローブの裾を数回いじくる。まだ根気強く断ってくるかとも思ったが、ハワードが譲らないということもわかっていたのだろう。けっきょくは神妙な顔をしてうなずいた。
「ごめ、」
立ちあがってベッドルームへ向かう途中、イギリスはこちらを振り返って謝罪の言葉をくちにしようとしたが、なぜか途中で飲み込んで黙りこんでしまう。なんだろうと彼へと視線を向けると、真っ赤な顔をした彼が必死の形相でこちらを見ていてハワードはびくりと肩を揺らしてしまう。
「あ、あ! ありがとう、いろいろ! すごく、助かるっ」
叫ぶようにそう言って、イギリスはぴゃっとバッドルームに逃げ込んでしまった。
なにを言われたのかすぐに反応できず、ぼうぜんと立ちすくむ。そしてイギリスの言葉を脳内で二度ほど反芻して、なんだすごく普通なお礼を言われたのだと気付いた。
「けど、なんか……」
すごく、嬉しくて恥ずかしい。
にやけてしまう頬を両手で押さえて、けれどその幸せを胸に抱えたままハワードもその日は眠りについた。
翌日、イギリスはまたハワードの買ってきたスーツを着て出ていった。けれど今度はただ見送るだけではなく「国境まで送りましょうか」と進言もしてみたのだが、イギリスはほんの数瞬迷うようにうろうろと視線を泳がせてから、すこし目元を染めてふるふると首を振るだけだった。
車で送れるので危険もかなり回避できるはずだと言ってもイギリスはかたくなに首を縦には振らず、なんの根拠があるのか「大丈夫」だと力強く言った。
そしてさらに、
「迎えに来る気が、する、んだ」
と、気恥ずかしそうにひどくぎこちなく彼は言う。迎えはたしかに要請しておいたが、それは真っ赤になりながら言うようなことだろうか。
しかしそんなハワードの疑問を解消することもなくイギリスは部屋を出ていってしまった。けっきょくなにも手助けできなかったことに肩を落としながら、せめてこれくらいはとハワードは自国につながる通信機を取る。
通信先の相手とすばやく情報を交換していると、やけにアメリカ訛りのある若い男の声で『やっぱりまた捕まってたのか! あいかわらずどんくさいな!』という声が聞こえてきた。前回は聞かなかった声に驚きつつも、自分が質問することではないとハワードはなにも聞かずに通信を切る。
しかし、時間をおけばおくほど祖国のことを『どんくさい』などというアメリカ訛りの男のことが気になった。が、答えが見つかるはずもないと早々にあきらめる。
そして後日ハワードは、祖国を迎えに行ったのがアメリカという国その人だと聞いて、なんとも言えない気持ちになるのだった。
END