上田にて
* * * *
「あの、ありがとうございました。」
健二がお礼を言ってこの家を出るのは二度目だ。
数日前は手首に手錠が掛かっていたので明るい別れではなかったが、今度は笑顔で「また来ます」と言えた。
一通り挨拶を済ませて荷物を積み込み、夏希と共に車の後部座席に乗り込むと、夏希の父が運転する車が緩やかに走り出す。
家族たちの姿が見えなくなるまで窓を見つめ続けた。
夏希が一連の騒動のどさくさで溜め込んでいたメールの返信に追われている間に健二はゆっくり瞼を閉じて上田で過ごした時間を振り返った。
沢山の思い出があって、たった十日ほどの出来事だなんて信じられない。
印象的なことはいくつもあった。でも、一定のリズムで頭の中のアルバムをめくっていた手がふと止まる。
それはほんの一時間前の記憶だった。思い出すだけで頭が熱くなる。
レポート帳を使い切るほど計算をした後のように頭がガンガンして、開いた拳の内側には汗が滲んでいた。家族の輪に戻る前に繋いでいた手は離れ、佳主馬は“普通”になった。
元から健二に比べれば内面が表に出ない。
そんな佳主馬の様子を見ていると告白を受けたのが幻の出来事だったようにも思える。
でも、引かれた手の感触や自分の手の甲に褐色の指が添えられている様子を細かに思い出せた。
そこでようやく佳主馬に対して何の返事もしていないことを思い出した。応えられないと思うのに手を握り返したことが罪のような気がしてきて新たな焦りが襲う。
あの時は冷静に考える余裕なんてなかった、全ては後の祭りだった。
「…くん、健二くんったら!」
肩を叩かれて振り向くと眉を八の字にした夏希と目が合って思わず「ごめんなさい!」という言葉が飛び出した。
その勢いに夏希が身を逸らしたのにも気付かない。
「ううん…、そんな大事な話じゃなかったから頭まで下げてくれなくて良かったんだけど…」
「え…あ、はあ」
後部座席のちぐはぐなやりとりに夏希の母、雪子がクスクス笑う。
「ずっとチビちゃん達やおじいちゃん達の相手をしてたものね。健二くん、疲れてたら寝ててもいいのよ。」
「いえ、その、…すいません。」
違う、と感じながらも雪子の言葉に甘えておいた。
疲れていたせいでぼんやりしていたわけではない、夏希に頭を下げたのも話を聞いていなかったことへではない。
(あれ?じゃあ何に謝ったんだろ)
膝の上で緩く丸めた両手を見る。そしてブンブン頭を振った。
「健二くん?」
「何でもないです!本当に何でもないです!」
両手を大げさに振って繰り返す健二のポケットでメール受信のランプが点滅する。
一人慌てる彼がそのメールに気付くのはもう少し後のこと。