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【ヘタリア】日没

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ざぁ、ざぁと海が鳴っている。沈もうとしている太陽は赤々と燃え、空と雲を赤、金、橙、朱と染めている。色取られた空はまだ明るく、海も銀を残していた。
 極彩色の空間を靴に砂が入らないよう注意しながら波打ち際へ向かう。目当ての人影は、気付いているだろうが、まるで話し掛けられるのを待っているように振り向かない。
「……海に日が落ちるのは、久しぶりに見たある」
「……中国さんは山にお住まいですからね」
 隣に立つと、お久しぶりですと日本が笑い掛けてくる。頷いて応えると、視線はまた前方へ戻った。
 太陽は漸く海に触れ、自らの色を水平線から溶かしていた。金に塗り替えられた波間では男が二人投網をしている。年嵩の老人は一発で網を広げ、まだ若い中年も大きく広げて見せた。双方見事と思うが、どうやら付き合わされているらしい二人の妻と幼い子は暇そうにして、砂山を盛っては踏み潰していた。
「……珍しいあるね。日本は我と一緒で庵は山に建てるほうだったあるよな?」
「ええ、そうです」
「どういう心境の変化ある。失恋でもしたあるか?」
「いえ、そんなことは……」
 苦笑しながら日本は大したことではないと続けた。
 日本の視線は海を向いたまま、刻々と変化する色彩を見ている。月が出ているらしく波は少し近づいていた。
「ただ、私は海に囲まれて生きているんだなと思ったら、海の近くにも家があっていいんじゃないかと思ったんです。それまでは本当、山や樹林か、町にしかありませんでしたから」
「ああ、そういうことある」
 たしかに大陸の国々にはわからない島国らしい考えだ。一理あると見渡せば、浜には海藻や大きな岩、貝殻の破片、細かなゴミが散らばっていた。先程の男の子は落ちていたペットボトルに砂を入れて遊んでいるがそれも汚い。
「ま、リゾートホテルとプライベートビーチを選ばない辺りが日本あるね」
「……その言い方は褒めてませんね」
 実際呆れていた。あるがままを愛して景観に拘らないことは日本の良いとことだが、人込みする海水浴場にしろと言っているのではないのだから、せめてゴミのない浜を探せと思う。
 日本は苦笑して、その後笑みを引っ込めた。太陽を見ながら、中国と呼んでくる。
「失恋ではないんですが、一目惚れに近いことはあったんです」
「ここで、あるか」
「はい」
 その光景を思い出しているのか、説明する言葉を思い付かないのか、日本の語りはとても単調だ。表情の起伏もなく、ただ瞳だけはかすかに震えていたが、感情を読み取るには至らなかった。
「ただ歩いていたんです。波と遊ぶでも、ゴミを拾うでもなく。黒髪が光っていて。こんにちは、と言われました」
 日本は、真剣というより無感動に話す。呆けているようにも、恋い焦がれているようにも見えないが、普段の様子とは明らかに違った。
 なんとなく不安な心持になる。壊れる寸前というより吹き消える寸前に思えた。目を離したらいなくなるようで、逸らさないよう風に遊ばれていた髪を押さえる。日本はまだ太陽を向いている。一方通行だ。
「きれいな方でした。今時珍しく着物を着ていて、それがよくお似合いなんです。身長は私と変わらないくらいなんですが、すらっとしていて。育ちが良いんでしょうね、とても言葉使いが丁寧でした、それに歩き方も。今度こちらに別荘を構えるそうで、下見に来られたそうです。私が、こんな海辺に何故と訊きましたら、昔は海松(みる)が取れる美しい浜だったからと仰いました。それから伊勢物語の和歌を詠まれたんです。とても博識で、昔を本当に懐かしく思っているようでした。その辺りで、なんとなく、ああこの人は人間ではないんだ、と」
 気付いた、らしい。
 振り向かない黒い頭がそこで口を閉じ、こちらを向いた。やっと絡んだ瞳から揺らぎ消えていた。ついでに表情の作り方を忘れたらしく、無表情のままだ。しばらく見つめ合う。
 こちらからも逸らさない。独白を聞きながら、途中で勘づき、ああそういうことかと納得した。心の不安は消え去り、侘しいような気持ちが占めている。
 だが、瞬きをした瞬間またすぐに顔を海に向けられた。太陽はもう半分以上を溶かしていて、波は赤く、空は濃い群青に変わっていた。投網の親子はビニール袋を取り出しアイスボックスに魚を入れていた。あと三十分もすれば海は無人になるのだろう。
「私は、恐らくあの方が好きです。少なくともお慕いしています。できれば思いを告げ、傍にいたい。あんなに、素敵な方なのに、今では愛してくださる人間は少なくなっていると言っていました。それでも、あの方は、これからも一人で生き続けなくてはなりません。その傍に誰もいないのは、寂し過ぎますし、哀れです。ですから、あ、特別になりたい訳ではないんです、単に、どうせ私は既に失う肉体は持っていませんので、昔話の相手にでもしていただければいいと。話されなくても、そばに、いたいんです……」
 影が無表情に重なり、更に表情を消した。
 否と告げた。躊躇いはなかった。
 その瞬間、無表情は終わった。勢いをつけて振り返った顔は唇をわずかに歪め、眉を寄せて、泣き出す直前の傷ついたものになる。その表情は幼いときの日本によく似ているなと思った。
「お前は日本を心から愛しているあるね。言葉のどこにも、やましさも自尊もなく、とても素直で、迷いがないある」
 波の方へ一歩近づく。かすかな抵抗のように風が吹きすさび波しぶきが上がる。海を渡ってくる風は痛い。太陽はだいぶ沈んでしまい、それでもなお赤々と水平線を燃やしていた。それはまるで命の残り火のように見える。
 しかし、と言う。相手は逃げなかった。
「駄目ある。日本は国ある。一人を優遇するわけにも、過去に現を抜かすわけにもいかねぇある」
 さらに近づき、触れられる距離になった。俯いたその瞳が潤うことはない。涙を持たないのだろう。
「それは、例え幽霊が相手でも同じある。我たちは国あるけど、感情を持っているある。意思や取り決めを守る為にも、具体的な記憶を持つ者を傍に置くことは出来ないあるよ」
 神や禍物として敬遠され崇められていた太古の時代なら別だろう。彼らは拠り所にこそすれ、媚びへつらうことも意見することもなかった。今は違うのだ。今は、国を崇敬することこそ変わらないだけで、我々は生かされている状況だ。
「――」
 と、背中から声がする。まだ遠いが、確実に近づいてくる。
 近くにある影を見やると、こちらを見ていた。優しい奴だと思う。だから、やはり駄目なのだ。こんな奴をみすみす堕としたくない。
「……これは、高望みなんでしょうか」
「……望むべきではないこと、ある」
 わかっていたのだろう。人形(ひとがた)は、ますます泣き出しそうに俯いているが、そんなことと反論することはない。
 耳にまた声が聞こえる。声の主を見たくないのか、もう何も言わんと黙った影に言う。
「日本はひとりぼっちじゃねぇある。我たちもいるし、世界にとって重要な大国として皆会いに来るある。ただ遊びに来る奴だっていりあるよ」
「……」
「だからお前も、いつか会いに行けばいいある」
 ぴくりと肩が震えた。構わずに言う。背中に足音が迫ってきていた。
作品名:【ヘタリア】日没 作家名:十色神矢