君はドレスで裸足のままで
シャンデリアの光がきらきらと輝くのを見ながら、日本は壁際に寄りかかりちいさく息を吐いた。――来なければよかった。若干の後悔がつきまとう。片手に持ったグラスの中で、嘲笑するかのようにシャンパンがゆらめいている。
*
「パーティー?」
イギリスの所有する庭でアフタヌーンティーを楽しんでいた日本は、スコーンを両手で割りながらイギリスの言葉を鸚鵡返しした。ナイツブリッジにある閑静な住宅街。喧騒からは遠く、そこだけ切り取られたように静かな場所だ。その家に、イギリスは数名の使用人と一緒に住んでいる。けっして広くはないが、狭くもない、それなりの大きさの家屋。書斎から見渡せる庭が彼のお気に入りだった。一年中、咲く花が絶えぬように手入れをしている自慢の庭である。
彼女から数ヶ月ぶりにこちらへ来ると連絡が入ったとき、イギリスの胸は踊り、それが態度にも表れていたようで、妖精たちや使用人に笑われてしまった。日本の滞在先は決まってイギリスのもとで、イギリスはいつも、彼女が退屈しないようにと、あちこちを案内してやる。この日も朝からロンドン市内を観光して早めに邸に戻り、今はアフタヌーンティーの時間の最中だった。スコーンを両手に持ったままで、日本はイギリスの返答を待つ。だけどまだ質問には答えず、「おかわりは?」、訊ねると日本はこくりと頷いた。イギリスは微笑んで、空になった彼女のティーカップに紅茶を注いでやる。繊細なつくりのそれは、傷つけないようにと日本がだいじに扱っていたものだ。ティーポットから琥珀色の液体が注がれるのを見つめる。庭先の、薔薇が綺麗な季節だった。
「パーティーって、何の」
いよいよ焦れた日本が再度訊ねた。ふわり、紅茶の湯気と香りが広がる。
「パーティーっつーか、まあ、公式じゃないがお偉いさん方との懇親会…と言ったほうがわかりやすいか?」
懇親会、って言うほど堅苦しくはないけど。ティーストレーナーを受け皿に置いて、イギリスは言う。それから一息置いて、「…女性を伴って出席することになってるんだ」。
そんなの、と彼女は頭の中で反論する。イギリスに手紙を送ってくる女性が山ほどいるのを、日本は知っている。今イギリスの言ったパーティーだって、彼が来ることを聞きつけた女性はたいそう喜んだだろう。普段の口の悪さを知らない彼女たちは、イギリスの容姿にだまされているんだ。イギリスという男は見た目に反して、もっと凶悪な男なのだ。だけど、確かにこの男は、黙っていれば端麗な顔立ちをしている。だけど口を開けば、(丁寧な言葉遣いはもちろんできるけれど、)汚い言葉だってどんどんと出てくる。それに酔ったときの彼といったら。とにかく、この男は見た目に反して、色々とえげつない。
日本はティーカップを両手で包みこむ。表面に映った自分の顔は、不安げにゆれていた。
「あなたと踊りたい女性はたくさんいらっしゃるでしょう? それなら私でなくとも…」
「好きでもないやつと踊れるかよ」
お前がいい。上げた視線の先にはひどく真面目な表情のイギリスがいて、日本は戸惑う。言葉の意味を理解し、顔が熱くなるのがわかった。耐え切れなくて目を伏せると、「決まりだな」と楽しそうな声がして、それ以上何も言えなくなってしまった。
*
喧騒。シャンデリアの光。ピアノの音。アルコールと香水のにおい。くらくらした。ボーイから受け取ったグラスは、一口飲んだだけで、それきりだ。赤いドレスの裾はひらりとゆれ、ミュールのつま先はなんだか心細そうに見える。壁にひとり。時折何人かの男性にダンスの相手を頼まれたが、丁重に断っていた。慣れないヒールのせいで、足が少し痛んだ。
来てほしいと言ったのは彼なのに、当の本人は日本の視線の先、遠くで数名の女性に囲まれている。嫉妬するような柄ではない。だけど、なんだか落ち着かないのはやっぱり、どこかで少なからず妬いているのだろう。悔しいので、態度にはあらわさないように努めてはみるけれど。アーサーに渡されて、着てみたドレスは試着をしていないのにぴったりで、少し驚いてしまったのはもう何時間も前の話。彼とともにホールに入ったときの、緊張感はとっくにほぐれて、日本は暇を持て余していた。言ってしまえば、つまらない。彼が自分を置いて他の女性と話しているのが。やっぱり妬いているのだ。
せめてもの仕返しに、と、彼に恨みがましく視線を投げかけてやる。どうせ気付かないのだ。日本がどこにいるかなんて、イギリスは知らないのだろう。それでも、こっちを見ろ、こっちを見ろ、と呪いのように唱えつづける。そう、イギリスさんなんて、呪いにかかってしまえばいいんだ。シャンデリアの光を浴びた金色の、彼の髪がすきだ、ぺリドットのような彼の瞳がすきだ。はやく、その目で私を見てほしいのに!
グラスを持った手に、ぎゅうと力が込められる。途端、かちり。何の前ぶれもなしに、イギリスが日本を、見た。日本は驚いて、持っていたグラスを落としてしまいそうになったが、危うくそれは免れた。視線をそらさないまま、イギリスは周囲の女性たちを置いて、どんどん自分のほうへ歩いてくる。イギリスを見上げる形になる距離まで近づいたところで、日本、と名前を呼ばれた。「ステップは踏めるか?」
「…それなりに、」
彼女からグラスを取り上げて、近くを通りかかったボーイにそれを押し付ける。
「ならいい。行くぞ」
日本の手首ごと掴んで、その細さに一瞬たじろぎつつも、ホールの真ん中へと引っぱってゆく。靴擦れしたところが痛いのに、イギリスはそれを言わせてはくれない。会場では間もなくダンスが、はじまろうとしていた。
「、イギリスさん!」
呼ぶとようやく足を止める、だけど手首はまだ握られたままだ。
「なんだ?」
「…今、靴擦れしてて」
だけど踊れないほどではない。それでもわがままを言いたくなるのは、やはり妬いているからだ。子供じみているとわかっていても、言ってしまったことは仕方ない。ドレスの裾をみつめる。顔なんて見たら泣いてしまいそうだった。沈黙。そののちに手首が離されたが、触れられていた箇所はまだ熱を帯びている。
「見せてみろ」
イギリスは途端、その場にひざまずく。日本はされるがまま、肩に手を置くと、イギリスはミュールを脱がせると、ぷっくりとあかい水ぶくれができていた。うわぁ痛そう、思ったけど口にはせずに、裸足になるとヒールがないぶん、楽に立つことができた。下に敷かれたカーペットのおかげで、足の裏はひんやりとはしない。
*
「パーティー?」
イギリスの所有する庭でアフタヌーンティーを楽しんでいた日本は、スコーンを両手で割りながらイギリスの言葉を鸚鵡返しした。ナイツブリッジにある閑静な住宅街。喧騒からは遠く、そこだけ切り取られたように静かな場所だ。その家に、イギリスは数名の使用人と一緒に住んでいる。けっして広くはないが、狭くもない、それなりの大きさの家屋。書斎から見渡せる庭が彼のお気に入りだった。一年中、咲く花が絶えぬように手入れをしている自慢の庭である。
彼女から数ヶ月ぶりにこちらへ来ると連絡が入ったとき、イギリスの胸は踊り、それが態度にも表れていたようで、妖精たちや使用人に笑われてしまった。日本の滞在先は決まってイギリスのもとで、イギリスはいつも、彼女が退屈しないようにと、あちこちを案内してやる。この日も朝からロンドン市内を観光して早めに邸に戻り、今はアフタヌーンティーの時間の最中だった。スコーンを両手に持ったままで、日本はイギリスの返答を待つ。だけどまだ質問には答えず、「おかわりは?」、訊ねると日本はこくりと頷いた。イギリスは微笑んで、空になった彼女のティーカップに紅茶を注いでやる。繊細なつくりのそれは、傷つけないようにと日本がだいじに扱っていたものだ。ティーポットから琥珀色の液体が注がれるのを見つめる。庭先の、薔薇が綺麗な季節だった。
「パーティーって、何の」
いよいよ焦れた日本が再度訊ねた。ふわり、紅茶の湯気と香りが広がる。
「パーティーっつーか、まあ、公式じゃないがお偉いさん方との懇親会…と言ったほうがわかりやすいか?」
懇親会、って言うほど堅苦しくはないけど。ティーストレーナーを受け皿に置いて、イギリスは言う。それから一息置いて、「…女性を伴って出席することになってるんだ」。
そんなの、と彼女は頭の中で反論する。イギリスに手紙を送ってくる女性が山ほどいるのを、日本は知っている。今イギリスの言ったパーティーだって、彼が来ることを聞きつけた女性はたいそう喜んだだろう。普段の口の悪さを知らない彼女たちは、イギリスの容姿にだまされているんだ。イギリスという男は見た目に反して、もっと凶悪な男なのだ。だけど、確かにこの男は、黙っていれば端麗な顔立ちをしている。だけど口を開けば、(丁寧な言葉遣いはもちろんできるけれど、)汚い言葉だってどんどんと出てくる。それに酔ったときの彼といったら。とにかく、この男は見た目に反して、色々とえげつない。
日本はティーカップを両手で包みこむ。表面に映った自分の顔は、不安げにゆれていた。
「あなたと踊りたい女性はたくさんいらっしゃるでしょう? それなら私でなくとも…」
「好きでもないやつと踊れるかよ」
お前がいい。上げた視線の先にはひどく真面目な表情のイギリスがいて、日本は戸惑う。言葉の意味を理解し、顔が熱くなるのがわかった。耐え切れなくて目を伏せると、「決まりだな」と楽しそうな声がして、それ以上何も言えなくなってしまった。
*
喧騒。シャンデリアの光。ピアノの音。アルコールと香水のにおい。くらくらした。ボーイから受け取ったグラスは、一口飲んだだけで、それきりだ。赤いドレスの裾はひらりとゆれ、ミュールのつま先はなんだか心細そうに見える。壁にひとり。時折何人かの男性にダンスの相手を頼まれたが、丁重に断っていた。慣れないヒールのせいで、足が少し痛んだ。
来てほしいと言ったのは彼なのに、当の本人は日本の視線の先、遠くで数名の女性に囲まれている。嫉妬するような柄ではない。だけど、なんだか落ち着かないのはやっぱり、どこかで少なからず妬いているのだろう。悔しいので、態度にはあらわさないように努めてはみるけれど。アーサーに渡されて、着てみたドレスは試着をしていないのにぴったりで、少し驚いてしまったのはもう何時間も前の話。彼とともにホールに入ったときの、緊張感はとっくにほぐれて、日本は暇を持て余していた。言ってしまえば、つまらない。彼が自分を置いて他の女性と話しているのが。やっぱり妬いているのだ。
せめてもの仕返しに、と、彼に恨みがましく視線を投げかけてやる。どうせ気付かないのだ。日本がどこにいるかなんて、イギリスは知らないのだろう。それでも、こっちを見ろ、こっちを見ろ、と呪いのように唱えつづける。そう、イギリスさんなんて、呪いにかかってしまえばいいんだ。シャンデリアの光を浴びた金色の、彼の髪がすきだ、ぺリドットのような彼の瞳がすきだ。はやく、その目で私を見てほしいのに!
グラスを持った手に、ぎゅうと力が込められる。途端、かちり。何の前ぶれもなしに、イギリスが日本を、見た。日本は驚いて、持っていたグラスを落としてしまいそうになったが、危うくそれは免れた。視線をそらさないまま、イギリスは周囲の女性たちを置いて、どんどん自分のほうへ歩いてくる。イギリスを見上げる形になる距離まで近づいたところで、日本、と名前を呼ばれた。「ステップは踏めるか?」
「…それなりに、」
彼女からグラスを取り上げて、近くを通りかかったボーイにそれを押し付ける。
「ならいい。行くぞ」
日本の手首ごと掴んで、その細さに一瞬たじろぎつつも、ホールの真ん中へと引っぱってゆく。靴擦れしたところが痛いのに、イギリスはそれを言わせてはくれない。会場では間もなくダンスが、はじまろうとしていた。
「、イギリスさん!」
呼ぶとようやく足を止める、だけど手首はまだ握られたままだ。
「なんだ?」
「…今、靴擦れしてて」
だけど踊れないほどではない。それでもわがままを言いたくなるのは、やはり妬いているからだ。子供じみているとわかっていても、言ってしまったことは仕方ない。ドレスの裾をみつめる。顔なんて見たら泣いてしまいそうだった。沈黙。そののちに手首が離されたが、触れられていた箇所はまだ熱を帯びている。
「見せてみろ」
イギリスは途端、その場にひざまずく。日本はされるがまま、肩に手を置くと、イギリスはミュールを脱がせると、ぷっくりとあかい水ぶくれができていた。うわぁ痛そう、思ったけど口にはせずに、裸足になるとヒールがないぶん、楽に立つことができた。下に敷かれたカーペットのおかげで、足の裏はひんやりとはしない。
作品名:君はドレスで裸足のままで 作家名:千鶴子