白い丘
一際見事なオーディンの裾衣が天にひるがえった次の朝、町を下ったカミュは遠い森へ向けて駆けた。
「さよなら」
カミュのその言葉に、友の小さな顔は少しべそをかいている。
何か心細く不安な陰が、青緑の瞳に隠せずに浮かんでいる。
「僕も行く」
「だめだよ、フレイのお父様とお母様が悲しむよ」
「カミュのお父様とお母様だって悲しむよ」
「…うん、…でも行くんだ」
───さよなら。
年上らしく、カミュは微笑して言った。
「………さよなら…」
そう言ってふくれるように口を結んだ、今にも泣き出しそうな顔。
振り返ると、小さな手をちぎれるように振っている。
───きっと君なら大丈夫だ、フレイ。
何が大丈夫だというのか、分からぬままにそう思い。
カミュはその名を忘れまいと思う。
母の気に入りのエメラルドによく似た青緑の瞳、誇らしげな微笑。
我が子の様子に気付いて追って来た両親の呼ぶ声がする。
───カミュ!
森に、見る間に近付いていく我が子に、母親が悲痛な叫びを上げる。
───どこへ行くつもりだ、戻っておいで。カミュ。
穏やかな父親の声が、さとすように呼び掛ける。
唇をかんで、カミュは走る。
───カミュ!
母の声が呼ぶ、涙の声で。
父の声が呼ぶ、驚がくの声で。
そして、町の人々の、声、声。
いつからか、町には余り子供が生まれなくなっていた。
走り去って行く子供の姿は、押し隠していた大人たちの不安をかき立てた。
───行かないで!
けれど呼び声は、赤い髪の子供が森に飛び込んだ瞬間、ピタリと止んだ。
森に近付こうともせず大人たちはきびすを返した。
───汚れた世界へ行ってしまった子供。───
善良で、争いを好まぬアスガルドの民。
早逝で、美しく、敬謙な人々。
幼いフレイは見たのだった。
大人たちが、子を失った両親までもが何事もなかったように、表情もなく町へ戻って行く姿を───。
* * *
ビョウーッ。ゴォゴォーォォォ。オオオオー。
吠えるヨルムンガンド。
「むちゃをするやつだな」
「子供なんて、みんなむちゃくちゃだよ。あんただってどう見たってまだ子供だよ、それが、旅の途中だなんて。みんな、親不孝だねぇ」
「へぇ、アイオロスが怒られてら。」
「こら、ミロ」
「元気な弟だね、ああ、元気が一番だよ」
───暖かかった。
「…おばさん」
「ああ、目が覚めたね。」
必死で走って、ふらふらになり何日も歩いて、ようやく森を抜けて拾われたきこり夫婦の小屋。
そして、何日か前優しく送り出された暖かな小屋。
「スープをあげようね。海へ飛びこんだって? むちゃをするねぇ、このお兄ちゃんが助けてくれたんだよ」
示されて顔を上げ、カミュは驚がくの声を上げる。
なんだろう?
進もう、行こうとした所の片りんが、そこに立つ二人に確かにあった。
「一緒に行くか?」
明るい笑いを見せて、年上の少年が言った。
「うん」
暗赤色のカミュの瞳が明るく輝いた。
「つらくなったら、帰っておいで」
その言葉に、年取った女の顔を見上げ、カミュはその首にしがみついた。
「おやおや、どうしたんだい?」
小さくしゃくり上げる声を聞き、きこりのおかみは聖母のようにほほ笑んだ。
「男はね、泣いちゃいけないんだよ。男はいろんなものから弱い者を守らなくちゃいけないんだからね。でもね、つらくなったら無理しちゃいけないよ、つらくなったら戻っておいで」
そうやって自分の子供達を幾度も送り出してきたのだろう。
「…うん」
涙をこすり、顔を上げる。
女房の後ろでは、大柄なきこりが励ますような微笑を向けていた。
「ありがとう」
手を振る。それに手を振り返し、老夫婦は子供達を名残惜し気に見送った。
「実は、迎えにきたんだ」
遠くきこり夫婦の姿が丘に隠れると、いたずらを打ち明けるように黄金色の髪の少年が言った。
「君が、おれ達のところへ来ようとしてるの、おれわかったんだ」
そう言って誇らしげに笑う少年に、カミュは微笑を返す。
「僕はカミュ、君は?」
「ミロ」
「行くぞ、二人とも」
黄金の聖衣をまとったアイオロスの姿に、二人はそれぞれに歓声をあげる。
「おれも早く、聖闘士になるんだ」
そう言ったミロの青い瞳は、晴れ渡った日の空より明るかった。
アイオロスは二人の子供を軽々と両手に抱えて立つ。
「よくつかまっているんだぞ、海に落ちても拾ってやらないからな」
「やだよぉ」
「もしもの時には、ムウのテレポーテイションの練習に使ってやる」
「おれ、ムウ嫌い」
「そういうことを言うやつじゃ、サガのような聖闘士にはなれないな」
「じゃ、アイオロスみたいな聖闘士でいいよ」
頭をこづかれミロは舌を出す。
「私のことが嫌いですか? ミロ」
「エ!」
突然の声に驚いてカミュもミロも周りを見回す。
「ここです」
声に見上げて、カミュは目を丸くした。
りんとした声さえ聞かなければ少女のような、藤色がかったブロンドを風に舞わせて、子供が一人宙に浮いていた。
「ここまで飛ぶとは、上達したな、ムウ」
「サガが、サポートしてくれたのです」
微笑がますます、少女のように見せる。
「早く戻るようにと、海底地震がありました、津波が近付いていますから。巻き込まれないようにと」
宙で指さす、海の彼方。水平線がゆがみ盛り上がる、それとはっきり分かる水の壁になってその高さをぐいぐいと持ち上げ陸地目掛けて走って来る。
「すごい!」
ミロは飛び上がって歓声をあげた。
「ムウ、ミロを頼めるか。テレポーティションで一緒に聖域へ戻ってくれ」
「やって見ます」
その言葉に逃げ出そうとしたミロを、地面に降りたムウがつかまえる。
「変な所へ行ったら、怒るぞ」
にらみつけるミロに、ムウと呼ばれる少年はいたずらな笑いを見せ、空間のすき間に入り込むように次の瞬間には消えていた。
「───こっちも行くぞ」
光の早さで地をけるために、アイオロスはカミュを抱え直す。
迫る津波の高さで、その時はすでに空さえ遮られていた。
「待って! おじさんとおばさんを!」
そのごう音の中で遠くにあがるの驚きの悲鳴を、カミュは確かに聞き分けたのだった。
「離れてはだめだ!」
抱え込もうとされ、カミュはなおさらにもがく。
「おじさん! おばさん!」
大地を丸のみするように、山ほどの高さまで口を開いたヨルムンガンド。
助けられると叫んだ、年上の少年の声も、カミュの耳には届かない。
「来るな! ヨルムンガンド!」
泣き叫び、手を振った。
胸の奥で、何かが破裂した。
手を振ったその先───。
「これは…」
驚きにアイオロスは目を見張る。
津波が岸辺にのしかかるようにして、山のような氷塊に変わっていた。
「アクエリアスか」
腕の中で気を失っている、赤い髪の少年をアイオロスは見る。
まだ候補の現れていない、アクエリアスの黄金聖闘士はおそらくこの少年であろう。