白い丘
第二章 ヨルムンガンド
恐ろしい、巨大な世界蛇ヨルムンガンドのうなり───。
初めてみる海は、まさに神話に聞いた世界蛇のうねる様だった。
人間の住む世界ミッドガルドをぐるりと一巻きし自分の尾をくわえるヨルムンガルド、その一息は大洋に波を起こし、尾の一揺れは津波で大地を洗う。
曇った天の果てまで続く水の地。
その果てから、水が山を作りこちらへ近付く。
嵐の森のうなりなど、比べものにもならないうなりを上げて。
膨れ上がる水の山、耳を覆ううなり。
それは激しく岩を打ち、彼の臨む崖をも揺らす。
───《呼ぶ声》は、その水の地の向こうから聞こえた。
冷たいしぶきを幾度もあびながら、赤い髪の子供は水の果てを見詰める。
海の果てにあるものなど聞いたことはなかった、それは死者の国ヘルだろうか?
飢えと寒さで行く度も倒れかけながら、呼ぶ声の暖かな力に助けられ幾つも幾つも森を越えて来た。
森の向こうは、惨めで醜い世界だと父も母も言った。
しかし、森を抜けても世界は変わらなかった。
『そのまま行けば向こうは海だよ。海を渡るにゃ船がいる、でもこの季節に船はないよ。それでも行くかい?』
うなづく子供に、きこりのおかみはみすぼらしい麻袋を渡す。
『お弁当だよ。うちから先は人も住んでいないしね。いいかい、つらくなったらすぐ戻っておいで』
くたくただった、歩いて、歩いて。けれど《呼ぶ声》は強く、子供の心を引く───。
ヨルムンガンドの向こうで、呼んでいる。
握り締めて来た麻袋が、荒れる風にさらわれて波の彼方に落ちて行く。
飢えた体で、子供は荒れ狂う蛇の背中をめがけて崖を飛んだ。
* * *
「また森を見て…」
きれいな細いまゆをひそめて母は言った。
「何が気になるの? あの向こうは私達が行くような所ではないのよ」
幾分高い声でとがめられ、子供は張り付いていた窓から離れる。
眼下には石造りの建物が幾重にも並び、その町をはずれたはるか遠くにある森はそこからは見えはしない。しかし、息子が窓をのぞき込み見ようとしている物を母親は知っていた。
暗い色の、赤い硝子玉のような瞳が物言いたげに母親を見上げる。
親子ならば当然の事ではあろうが、顔を見交わす母と子はよく似た容ぼうをしていた。
「カミュ、お父様がお嘆きになるわ。もうじきあなたも宮殿に上がるのだから、良い子にしなくてはね」
「はい」
答えて、うなづく。
けれど、飲み込めない何かが小さな胸に大きくつかえている。
「遊んできていい?」
「ええ、行ってらしゃい…でも…」
「森へは行かないから」
「そうね」
母は微笑した。
森はその広大さで大層近くにあるように見えるが、簡単に行ける距離ではない。
子供らしく走って行く息子の姿に、彼女はほっとため息をつく。
まだ幼いはずの我が子が、しばしば子供に見えなくなる。
その利発さは、人に誇らずにはおれないものだったが。
その、意志とでも言うのだろうか?
何も言わぬ素直さの中に、得たいの知れぬ激しさを感じて彼女は戦りつする。
よく似た容ぼうをしていた。父にも母にも…。それはおそらく、その地に住む人々が一様に備えていた繊細に美しく整った顔だった。
しかし、その髪。
父も母もその地のだれも、皆、淡い金や銀の髪をした中で、子供の髪は炎の色をしていた。
赤銅の炎の色、血の色。
争いを好まぬこの地の人々は、それを中傷こそしないが、その色の不吉さに各々に顔を曇らせている。
瞳さえも、それはめだった特徴ではなかったが、赤いのだ───。
「どこから来た子供なのだろう?」
それもまた、この地の人々が一様に持っていたものだったが、氷のように冷たい瞳で母親はつぶやく。
石畳を走る、軽く高い音が町を高台へ上って行く。
町は静かだ、石造りの建物は彫刻が施され大きいが、その軒を行き交う人はほとんどない。
職人たちの暮らすあたりまで町を下れば、少しはにぎやかだったかもしれないが、それとてただ鉄を打つ音や木を削る、音が聞こえると言うだけ話である。
まれに人同士が出会っても、静かに微笑を交わすばかりで、彼らは風のように走り抜けて行く子供とその余り気持ちの良くない赤い髪を驚いたようにただ見送る。
白い石の建物の間を流れる風の音と鳥の小さなさえずり。
ふと立ち止まり、子供は空を見上げる。
見上げるような建物も、高い空には及ばない。
紺ぺきの空に、オーディンの裾衣が、今日はオレンジ色に揺れていた。
「カミュ──」
遠くから呼ぶ声。
まだ遠い高台から、小さく手を振る年下の友達。
うれしげに手を振りかえし、子供はまた走り出す。
「向こうが北、雪と氷の荒れ地ニフルヘイム。あっちが南、森の向こうは、ミッドガルド」
今日父親から教わったと言って、うれしげに指さして青緑の瞳の友が言う。
ミッドガルド、人間の世界。森の向こうを、この地の人々はそう呼ぶ。
我欲をむさぼり争いを好む醜い人間の地、ミッドガルドと。
そして、自らの住む地をアスガルド、神の地と呼ぶ。
善良な、神を敬う敬謙な人々が神の加護の内に住まう聖地、アスガルドと。
「神戦士になりたいな」
カミュよりもまだ幼い、あどけない顔で瞳を強く光らせ友は言った。
北、ニフルヘイムからこの地を守るかのように巨大なクレバスが高台からも見上げるほどに隆起している。
その上には教主と呼ばれる主神オーディンの地上代行者の住まうワルハラ宮殿と巨大なオーディン像が威容を誇るように建っている。
教主は代々長命で早逝なこの地の人々のなん倍もの時を生き、神にも等しい力を持つ。
その教主に従い、あらゆる邪悪からこの北の地の人々を守るのが、神戦士と呼ばれる神に選ばれた戦士達だった。
「君ならきっとなるよ」
小さな肩に手をおいて言う。
「うん」
その言葉に笑う。うれしげな、誇らしげな微笑。
この年下の友達が、カミュは好きだった。
「───僕は、行くんだ」
高台の、かつては何か建物が在ったのであろう、崩れた大きな石づみの上に丸くなるように座り、カミュは空を見上げた。
それを追って石づみに上り、小さな友は不安げにカミュの顔をのぞく。
「どこへ行くの?」
「森の向こう」
「…森には恐い魔がいるって」
「うん、でも行かなくちゃならないんだ」
神の御印、オーディンの裾衣と呼ばれるオーロラが、暮れかかる空でより鮮やかに揺れ始めた。
二人の子供が見上げる前で、オレンジ色に揺れていたそれが金色に変わる。
小さく歓声を上げて、子供達は立ち上がる。
「きれいだね」
「うん」
カミュの腕につかまった小さな手に力がこもる。カミュも、またこぶしを握る。
「行けって言ってる」
その赤い髪とオーロラのせいかもしれない、そう言ったカミュの姿は一瞬金色に包まれて見えた。
ミッドガルドへ───。
いやそうではない、違う何かが、違うどこかで、カミュを呼び。
オーディンが行けと、森を示す。
「ぼくは、行くよ」