白い丘
第三章 幽囚
───ヨルムンガンドの腹の中にいる訳か。
その青い腹の中は、空気が濃く、重く、まといつくようだ。
青い色が暗く濃くなる。
夜だろうか?
しかし、闇には遠い薄明かりのまま時が過ぎる。
白夜のようだと、カミュは一人ほほ笑んだ。
凍える寒さも雪もないが、そこは彼が聖闘士となって赴いたシベリアにどこか似ていた。
人の気配のない、森閑とした自然の静けさ、視界を遮るもののない無限の広がりを見せる平たんな大地。
息を吸い、静かにはく。
胸につかえるようではあるが、空気は肺を膨らませ、はく息は温かくのどを抜ける。
また、命を得れたのなら───。
この時こそは、アテナのために戦いたい。
胸を反らせ、両のこぶしに力を込める。
次元を越えた胸の底で弾け燃え上がったものが、青白く輝きカミュの体を包む。
わずかに力を抜き、手の平を開く。
湿度の高いそこで、大きな雪片が白い羽根のように舞った。
「だれだ?」
薄闇の中、こちらを伺う気配に声をかける。
カツンと鱗衣の足音を立てて姿を見せた青年。
その青年の名をカミュは知っていた。
「お久し振りです。先生」
冷ややかに言った青年の、左目は大きな傷と共に二度と物を見ることは出来なくなっていた。
「───おまえか、アイザック」
もはや聖衣を得るばかりにまで成長し、その矢先失った、かつての愛弟子。
「お前を選んだのは、キグナスの聖衣ではなく海闘士の鱗衣だったのだな」
海にもぐった弟でしを助けて、潮流に流されたと気付き、師カミュは東シベリアの海に幾度も潜りその姿を探した。
しかし、コスモも感じず、ましてや哀れな遺体もなく。
そして、カミュは気付いたのだった。黄金聖闘士となりシベリアに赴いたときから感じていた、北極海の厚い氷の下の得たいの知れぬ気配、それが消えていることに……。
「クラーケンの鱗衣です、先生」
クラーケン、それは北氷洋の伝説に恐れられる怪物だった。
航海する船の前に、突然姿を現し船を丸のみにするというクラーケン。
その姿を見て生き残る者はなく、しかし、クラーケンは悪しき者の乗る船だけを襲ったという、正しき者の乗る船を襲うことは決してなかったと…。
「お前の気にいっていた、伝説だったな」
「悪に対しては、微廛も情け容赦しない。常にクールに殺すだけ。それが、先生から学んだことでした」
「…私に何の用がある」
カミュの口調は穏やかだった。
「この汚れ切った地上を救うために、力を貸して下さい。」
「私は、アテナの聖闘士だ。アイザック。」
「一度死に、その命がポセイドン様から与えられたものでも、そう言うのですか。」
「…だれが与えたものであれ、私がアクエリアスのカミュで有る限り、私はアテナの聖闘士であろう?」
ふわり、また雪を舞わす。
「地上を、汚れのない美しい世界にしたいとは思わないのですか」
「アイザック。そのために私を組みさせ何をさせようというのだ? 私を駒に地上の水を操り、アテナを脅かそうというのか? 罪もない人々を巻き込んで…」
「総ては汚れているのです、女だ子供だと容赦をすれば、それがやがて大きな邪悪になる。取り返しのつかなくなる前に、アテナはポセイドン様に地上を明け渡すべきなのです」
「そう言うのなら、それがお前にとって正義なのだろう」
冷たい氷の瞳、しかしその奥には計りがたい熱さをもっている。
クラーケンの鱗衣に所有者と認められ、ポセイドンを守る七大海将軍の一人になれるほどのコスモ、それを身につけさせてくれたのは、他でもないこの人だった。
そして、敵にはみじんの容赦もなくクールになれと教えてくれたのも…。
「今のあなたは、聖衣もまとっていない。だが容赦はしない」
技の構えをアイザックはとる。
「いいだろう」
そう言って、しかしカミュは無防備に手を下げたままだった。
「どういうことだ、あなたは自分の非を認め俺に討たれるというのか?」
問い掛けるかつての弟子の前で、カミュの体は再び青白い光をまとう。
「お前を討って───、ここで騒ぎを起こす訳には行かぬのだ」
「なに!」
「私は敵だ、討つがいい。私は、お前が子供に拳を向ける様など見たくはないからな」
また雪が舞う。
──守護天使の羽ばたきのように。
放つコスモにあおられて炎の髪が広がり、死葬束が揺れた。
喉の奥でうめいて、アイザックは構える。
弟でし助けるために片目になった、その唯一の瞳が、熱く己が師を見詰める。
この人のようになるのだと、清く正しく、真の強さをもった男になるのだと、ひたすらに思い、あの酷寒のシベリアの訓練に耐えぬいた。この人のような男になり地上の平和のために闘うのだと…。
「討つ!」
アイザックは叫んだ。
「あなたは敵だ」
構えた拳の周りで凍気が白い渦を作る、カミュの舞わせる雪が引き込まれる──。
「お待ちください!」
が、それはマーメイドの声に止められた。
「邪魔をするな、ティティス!」
「いいえ、クラーケン。ポセイドン様が命を与えられたこの男を、みすみす殺させる訳には行きません」
二人の間に立ちふさがり、ティティスは大きく両手を広げる。
二つの凍気の間で膚がぴりぴりと痛かった。
「どけ、ティティス───。この男、ポセイドン様に従いはしないぞ」
低く、アイザックは言った。
「いいえ」
ティティスは首を振る。
「アクエリアスの聖闘士をポセイドン様がお呼びなのです」
* * *
青いチュニックに編み上げのサンダル。
まだ聖闘士になるまえ、聖域で皆が一様にしていたのも、そんなギリシャ時代の服装だった。
正装のしるしのマントをブローチでとめる。
淡いクリーム色のマントにかかる髪を、手渡された金のくしで整える。
明かりのない、青い回廊を行く姿は、すでに、よみがえった死人ではない。
「この地に人はいるのか?」
「いいえ。海に人間は住めませんわ」
いたずらげに、人魚は言う。
「ここにいるのは、海皇とその海闘士だけです」
そう言いながら、隣を歩く聖闘士を不思議げにティティスは見上げる。
どこか人と言うものから掛け離れた…。
雪を舞わせていた様は、およそ人間らしくは見えなかった。
それは、一度命を終えた人間だからだろうか?
赤銅色の髪、暗赤色の瞳の冷ややかな美貌。
それは、聖書に聞いた天使を思わせた。
赤い色と炎で象徴される、神の愛をあらわす守護天使。
聖闘士が天使なら、神はアテナ。
───そう、そして海皇も…、神なのだ。
* * *
淡い光り、それは、海皇のまとう鱗衣から発せられているのだろうか。
青い列柱の並ぶ大広間の奥、海皇の座にすわって居たのは、まだ少年だった。
「私に従うつもりはないとの事だな、アクエリアスの聖闘士よ」
「再び、私をよみがえらせて下さったことには感謝いたします」
ひざまずき、カミュは言った。
「何故、従わぬ?」
その外見に似合わぬ、落ち着いた声が問う。