視線速度
ゴホンと咳払いをした時任は、おもむろに立ち上がり、机に両手をついて久保田の方に身を乗り出した。久保田は彼の動きにつられて目線を上げる。
「……!」
「キスって……こういうモンじゃねえのかよ」
一瞬、かすめるように触れていった時任の唇は、乾いていて少しガサガサしていた。予想外の出来事に、珍しく久保田の対処が遅れる。
ぽかんと時任を見上げることしか出来ない久保田に、時任は悪戯っぽく笑い、
「これなら、もっと忘れねーだろ?」
「……そりゃあまあ」
「よし。――んじゃ俺、セブン行ってくっから」
唐突に話を切り上げて、時任は足早にリビングを立ち去った。玄関のドアが閉まる音をきいて、ようやっと久保田の時間が動き出す。
「えーと。……あれ?」
小首を傾げて、今、自分の身に何が起きたのかを反芻してみる。
やがて時任の吐息が触れた箇所からじわじわと全身に温かいエネルギーが満ちていくのを感じた。どくん、心臓が大きな音を立てて脈打っている。
自分が、『生きて』いること。
それを教えてくれるただ一人の君。
あの照れ屋な時任が、どんな顔をして帰ってくるつもりだろう。そう思ったら、久保田は可笑しくて仕方がなくなった。それともいっそ、お触りOKらしいウチの踊り子さんに、奇襲を掛けてこちらから迎えに行ってしまおうか?
久保田は、おそらく今までの人生で初めて、満ち足りた笑みを浮かべた。
壁に掛かっていたコートに袖を通す。
早く君の顔が見たいから。
早く君の声が聞きたいから。
早く君の……温かなその唇にもう一度、触れてみたいから。
もう決して、忘れてあげることなどできはしない。