視線速度
時任と過ごすうちに内部から作り替えられた久保田の身体は、痛みを痛みとして認識するようになっている。いつのまにか植え込まれた感覚はこんなときだけ便利だと、しれっとした顔で久保田は指を持ち上げた。時任が舌を這わせた箇所はもう疾うに乾いていたが、それを惜しむかのごとく自らの舌で再度湿らせる。
「あーもうッ! わあったよ」
含みのある笑みを浮かべた久保田から顔をそらし、時任は不承不承降参の旗を掲げた。声を張り上げるのは開き直ったときの彼のクセだから、こうなれば落ちたも同然。久保田は黙って次の言葉を待つ。
無言の催促に小さくため息をついて、やがて彼はぽつりと呟いた。
「……俺と会う前のお前のこと、考えてたんだよ」
「お前と出会う前の――俺?」
久保田は不審気に眉を顰めた。時任と出会う前の自分なんてあまりにも遠く朧気で、彼の言葉がまるで理解不明の言語のように、上手く頭に染みこんで来ない。
だが時任は、久保田を置いてけぼりにしたままさっさと話を進めてしまう。
「そーだよ。俺が知らない頃の久保ちゃんが、誰といたのかとか、どんな風に過ごしてたのかとか、そういうことずっと考えてた」
「なんで急にそんな……?」
常に前を向いて歩く時任に似つかわしくない思考だ。問いただそうとしてふと言葉を止める。つい最近、これと同じような不信感を彼に抱いたことがあった。あれは、そう警察の内部でねちねちと取り調べを受けていた最中。
「……ああ」
一人の女性の存在が、すうっと脳裏に浮かび上がった。
「アンナに、何か言われた?」
「……別になにも。でも久保ちゃん、あのオンナのことさあ……」
「うん?」
「好き――だったんじゃねえの?」
拗ねたようにそっぽをむく猫の耳はぺたんと降りていて、ああ、彼がずっと気にしていたのはそれだったのかと得心がいった。思わず喉の奥にこみ上げた笑いを、すんでの所でかみ殺す。
「なぁにお前。そんなガセ吹き込まれたの?」
「だってあのオンナ、久保ちゃんとは仕事じゃなかったって言ってたぞ。それって、好きだったってことじゃねぇのかよ!」
意図的なのかそうでないのか、時任は久保田とアンナの関係を全て過去形で話していた。もう終わったことのように。
だが正確に言うなら、始まってさえいなかったというべきだろう。自分と彼女の間には、傷の舐めあいほどの細いつながりさえ育ちはしなかったのだから。
久保田に助けを求めたアンナ。その手を取ってはみたけれど、結局僅かの救いさえ与えることはできなかった。久保田には彼女が何を求め、どうすれば癒されるのか、まったく分からなかった。分かろうと、努めたこともなかった。
ただ彼女が示す通り、なぞるようにそれを実行しただけだ。アンナがそれで満たされはしないことを知っていたけれど、当時の久保田にはどうしてやることも出来なかった。今の自分ならば少しは違うだろうか。
けれどもう、そのベクトルが彼女に向けられることはない。
差し伸べられた手を、自分の意思で握りかえした相手はただ一人。この手を失わないためなら、久保田はどんな無様な姿をさらしてもあがき続けるだろう。努力なんて言葉は、自分から一番遠い単語と思っていたのに。
多分、時任に出会う前の久保田は、『生きて』はいなかった。
ゾンビのようにふらふらさまよう久保田を、アンナも決して本気で欲していたわけじゃない。彼女もまた、自分を変えてくれる存在を探していた。
ただ、彼女は少し疲れていただけ。誰かに寄りかかってみたかっただけ。
ただ――、
「『慰めてよ』って言われたんだ」
「あ?」
「俺には慰めるってどんなことか分からなかったから、彼女の求める通りにしただけ。誰かを好きとか嫌いとか、あんま考えたことなかったんだよねえ」
「……久保ちゃ」
「お前に出会う前の俺は、確かに『誰か』と『何か』をしてきたかもしれない。でも俺の中にはそれがこれっぽっちも残ってないから、お前が知りたがっても説明してあげられないんだ」
ごめんね、と小首を傾げると、時任が泣き笑いのような表情を浮かべた。革手袋の手がすうと伸びてきて、久保田のざんばらに解かれた髪をやさしく撫でつけてくれる。
「ったく、しょーがねえなァ、久保ちゃんは」
「うん」
「全部忘れちまったのかよ。どーせあのアンナって姉ちゃん以外にもいろんなオンナ慰めてきたんだろ」
「さあ、どうだったかな」
鋭い指摘を曖昧な笑顔ではぐらかした久保田は、ふと昔同じようなことを言った女性がいたことを思い出した。
『…ね 何人ぐらい女知ってる?』
『さあ カウンター付いてないんで』
彼女の姿を思い起こすとき、浮かんでくるのは必ず最後に目にした和装の喪服姿のそれだ。クスリともオトコとも縁を切ることができず息子を悩ませ続けていた女は、それでも間違いなく母親という種族だった。
久保田は、髪を撫でる手の気持ちよさにうっとりと瞳を閉じた。
幼い頃、透明人間だった自分に何かを与えてくれる存在はいなかったけれど、今、それを補って余りあるものをたった一人の少年から受け取っている。
いつかこの存在を何らかの形で失う日がきても、与えられた温もりを、きっと一つたりとも忘れたりしない。
目蓋を押し上げて手の動きを遮ると、久保田は、そのまま彼の指を捉えてそっと手袋をはぎ取った。
「久保ちゃん……?」
時任が首を傾げる。
「この手は、熱いとか冷たいとか全然感じないって、前にお前言ったよね」
「あ? あーうん。そうだけど」
「じゃあいっか」
「なにが……ッて、久保ちゃん!?」
堅い毛で覆われたその手のひらに、久保田は厳かに唇を落とした。熱い吐息が獣の毛をそっと揺らす。時任自身は感覚のないという手だが、その表面は温かく、確かな血の流れを感じた。生きている、と実感する。
時任は一瞬硬直してから、見る間に顔を真っ赤に染めた。
「バッカ、なにすんだよ!」
「だって感覚ないんでしょ? だったらいーじゃない」
「そういう問題じゃねーだろ! つーか普通に触覚はあるっつーの」
「はいはい。そんなに嫌だったんなら、手ぇ洗っといで」
苦笑して手を解放すると、それまで喚き続けていた時任の動作がピタリと止まった。自由になった右手をじっと見つめて、彼はぽそりと呟いた。
「別に嫌だなんて言ってねーだろ」
「……嫌じゃないんだ?」
「同じこと何度も言わせんな。そうじゃなくて、なんでこんなことしたのか聞いてんの!」
「んー、アンナや他の誰かさんに触れた感触は忘れちゃったけど、お前とのキスなら覚えてられるかなあと思って」
「……ッ!」
あっけらかんと笑う久保田は、実は確信犯だ。ただ触れたかっただけなのだと言ったところで、時任には伝わるまい。試すような言い方で煙に巻いてしまえば、後腐れもなく一石二鳥だ。大きな耳からうなじまでを綺麗な紅に染めた彼が、「それなら……許す」と目論見通りの言葉を紡いだのに内心ひっそり笑う。
だが、時任は唯一行動を把握しきれない存在なのだということを、久保田は忘れていた。
「でもな」