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「  」と番犬

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「  」と番犬




早足で自宅の扉の前に歩み寄り、鍵を開ける。がちゃがちゃと音をたてて扉が揺れる。いつもより乱暴な仕草になっていることに気づき、思わず出てきそうになった舌打ちを飲み込んだ。こんなに気が急いているのは、帰宅が思ったより遅れたせいだ。一秒ごとに募っていく苛立ちは、中で待っているはずの人物の顔を見るまで治まらない。だが、鬼気迫る表情なんて見せたくない。静雄は、一度大きく息を吐いた。ぎりぎりと心臓をしめつける焦りを無理やり押さえ込んで、ゆっくりと扉を開く。しかし、折角の自制も、迎えてくれるはずの声がないことに瞬く間に無駄になった。

「帝人?」

慌てて扉を閉じると、予想以上に大きな音が響く。玄関にきちんと揃えておかれた靴があることを確かめ、多少落ち着きを取り戻した。
もしかして風呂に入っているか、疲れて寝ているのかもしれない。ならば起こすのは可哀相だ。

さっさと靴を脱ぎ、足音を立てないように静かに中に入る。リビングの扉を開けると、テーブルに向かう帝人の姿を見つけた。広げられたプリントや参考書を見るに、勉強しているのだろう。静雄の高校生時代よりも余程真面目な帝人は、たとえ静雄がいようとも毎日何かしらノートを開いている。以前それを邪魔してしまい、困ったような顔ではっきりと言われた。「僕は学生なので勉強しなきゃいけないんです」帝人の言うことはいつも正論だ。

帝人は、彼のルールに基づいた絶対に譲れないことをいくつか持っている。それを侵さない限り、基本的に何をしても許容してしまうか、彼の日常の外に弾きだし、素通りしてしまうだけだ。ここにいるのもきっと、帝人にとってたいしたことではないからだろう。そう考えると、何故か気分が重くなった。それを振り落とすために、一生懸命ペンを動かす帝人を見つめる。

Tシャツにくっきり浮き出た肩甲骨の形がキレイで、肉付きの薄い背中も小さく頼りない肩もガラス細工よりも脆そうだ。触れたら砕けてしまうのではないかといつも冷や冷やする。丸い後頭部は一度も染められたことのない艶やかな黒一色で、今はテキストに向けられている大きな目と同じ色をしていることを知っている。不機嫌さが霧のように立ち消えていく代わりに、今度はその後ろ姿から目が離せない。

その目が見たいな、と思う。その声が聞きたい、とも。

壁に凭れかかり、帝人が手を止めて振り返るのをじっと待つ。静かな部屋は、紙のすれる音とシャーペンの動く音だけが響く。

休むことなく動く勤勉な手。その左の方の手首に、皮のバンドが巻かれている。それは、初めて帝人がここで暮らし始めた日に、足枷として使われたものだ。細い手首を縛り付ける黒い首輪を確かめると、気持ちが和らいだ。それは、帝人が静雄を受け入れてくれた証。静雄を必要としてくれている証だ。

視線を足元に落とす。裸足の足がふらふらと揺れている。片手で握りこめてしまうだろう細い足首は、傷ひとつ見当たらない。足枷を外してやったとき、その柔く傷つきやすい肌には圧迫された痕がついていた。今は、何事もなかったように消えてしまった赤。それを見ると、胸の奥で何かが凝ってずしりと沈みこむ。

手首に巻かれたベルトは、白い踝に目をやっては食い入るように見つめてしまう静雄に帝人が気を使った結果だった。「鎖とか足枷は気になるので嫌ですけど、ここならいいです」と、じっと伺うように見上げてきた。そんなに見ていたのかと無意識の行動に恥ずかしさを覚えたが、それを上回る喜びがあったことは否めない。頷いた静雄に、安心したように浮べられた微笑みを見て、もしかして威圧感を与えていたのかもしれないと反省した。

それでも、帝人は静雄を受け入れてくれたのだ。それを思うと、不思議と穏やかさと高揚とが入り交じった不思議な心地がする。

不意に、帝人が振り返った。

「静雄さん?いつから…」

見開かれた目が驚きと羞恥を写している。帝人はちらりと時計を見上げて、ノートを閉じた。

「ついさっきだ。ただいま」

「あ、おかえりなさい。ごめんなさい。気づかなくて。でも静雄さんも、帰ったんなら声かけてくださいよ」

「邪魔しちゃ悪いと思ってな」

「そういう時は別にいいんです。お腹すいたでしょう。お風呂入っちゃってください。その間に準備しますから」

テーブルの上を手早く片付けると、帝人は立ち上がる。その笑顔だけで、一日の疲れが洗い流された気がする。エプロンを身に纏う様子や、リボン結びを揺らしながらテーブルを拭く後ろ姿は、男子高校生とは思えない。

その姿を視線で追いかけながら、静雄は思う。こいつは髪の一筋だって傷ついていい存在じゃない。平穏の中で生きていくべきなのだ。そのためなら何でもしてやる。何度も、何度でも決意する。たとえこいつが、何をやろうとしていても。

「静雄さん?」

一向に動く気配のない静雄を、皿を取り出そうとしていた手を止めて、帝人が怪訝そうに見やる。

「帝人」

「どうかしましたか」

「あー、あのな」

口にしようとしている言葉の恥ずかしさにがりがりと頭を掻きむしり、口籠もる。躊躇の末、やはり言おうと口を開く。深く物事を考えることが苦手な頭で、ずっと考えていた。なにが帝人にあんな顔をさせるのか。一緒に過ごした少ない日々の中、帝人は何度も静雄の力に羨望の眼差しと言葉を投げかけてきた。もし、自分で自分の身を守れないことへの無力感がその理由だとしたら。思い上がりかも知れないが、この言葉は、帝人の心を少しは慰めてやれるかもしれない。

「お前、何かしようとしてるだろ」

帝人の顔が強張る。違う。責めたいわけじゃない。誤解を解くために、急いで本当に言いたい言葉を紡ぐ。

「俺の力が必要なときにはいつでも言え。お前のためなら何だってやってやる」

「したいことはあります。でも、静雄さんにさせたいことじゃありません」

「俺にはできないことかよ?」

「そんな、あなたにできないことなんて…」

そんなものたくさんある。実のところ、できることの方が少ない。だが、帝人は何故か静雄に幻想を抱いているようだ。ならば、それを敢えて解く必要はない。帝人に一番に頼ってもらえるのならば、それでもいい。ずっとずっと誰かを守れる人間になりたかった。誰かを助けるために、この力を振るいたかった。ようやく力を制御できるようになり、先日の騒動では子供を助けることさえできた。今なら守りたい人間を傷つけることなく、守り通すことができる。長年の願いがようやく成就するかもしれない。

「なら、何でもさせてくれ。俺はお前の力になりたい」

澄んだ目が、ぱっと輝いた。だが一瞬浮かんだ喜色は瞬く間にかき消され、かっと頬が朱色に染め上げられる。弱々しく眉尻を下げ、後ろめたそうに視線が外される。おそらく、静雄の言葉に喜んだ自分を浅ましいと恥じているのだろう。帝人の清廉さは、いつも静雄の胸を打つ。人間の欲望と打算の渦巻くこの街で、未だに純朴さを失わない彼に、感動さえした。

だが、静雄はすぐにそれが自分の思い違いであったことを知る。一転してだんだんと血の気のなくなっていく顔。光を失っていく、見開かれた目。それらとは裏腹に笑みの形に歪んだ口元。

この表情は。
作品名:「  」と番犬 作家名:川野礼